将軍継嗣問題での敗北
13代将軍となった徳川家定は生来病弱で、世継ぎの男子が誕生する可能性が低いと考えられていました。そのため、将軍の跡継ぎをめぐって二つのグループが対立します。
ひとつは、強いリーダーシップを発揮する有能な人物を将軍にするべきだというグループで、松平慶永や島津斉彬ら、雄藩の藩主達が中心となりました。彼らは一橋慶喜を将軍後継として推薦します(一橋派)。
もう一つは、徳川家の血筋を第一とするべきだとする譜代大名や大奥を中心とするグループで、彼らは紀伊藩主徳川慶福を将軍後継にするべきだと主張します(南紀派)。
1858年、家定が重態となると彦根藩主井伊直弼が大老に就任、家定の名で次の将軍を慶福とすることが発表されました。将軍継嗣問題で一橋派は敗退してしまいます。
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安政の大獄
1857年、アメリカの駐日公使ハリスは幕府に対し通商条約締結を要求してきました。ハリスは中国で起きているアロー戦争を引き合いに出し、イギリスやフランスが武力で通商要求する可能性を示し、幕府に決断を迫ります。
幕府は老中の堀田正睦を京都に派遣。孝明天皇の勅許を得ようとしました。しかし、孝明天皇が勅許を出すことを拒否しました。大老に就任した井伊直弼は、無勅許で日米修好通商条約に調印します。
井伊直弼の強引な決定に批判の声が上がりました。井伊は幕府政治に反対する人々を徹底的に弾圧します。批判的な公卿や皇族、大名たちには引退を命じました。松平慶永もこのときに隠居させられます。
また、越前藩士の橋本佐内は井伊の命令で死刑とされました。長州藩士の吉田松陰も死刑を命じられます。この一連の弾圧を安政の大獄といいました。
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松平慶永の政界復帰
井伊直弼が桜田門外の変で殺害されると、幕府の権威は大幅に低下します。幕府は朝廷と融和し、挙国一致の体制を作る公武合体へと方針転換しました。1862年4月、松平慶永は再び政界に復帰を許されます。1862年8月の文久の改革で慶永は政事総裁職となりました。その後、慶永は雄藩の藩主と参預会議や四侯会議で話し合いますが、国政をうまく動かすことは出来ず、薩長の武力倒幕を容認せざるを得なくなりました。