文久の改革と松平慶永の政事総裁職就任
1862年、薩摩藩主の父で薩摩藩の最高実力者である島津久光は兵をひきいて上洛。勅使の大原重徳を奉じて江戸に下向しました。久光は幕閣に対し、勅旨を伝達し幕政改革を要求しました。
久光の要求は、大きく分けて2つです。一つは将軍が諸大名を率いて朝廷で国政を行うこと。もう一つは一橋慶喜の将軍後見職就任と松平慶永の政事総裁職就任、会津藩主松平容保の京都守護職就任でした。
二つのうち、特に後者は幕府の最高人事に対する朝廷や諸藩の干渉であり、数年前まではあり得ない内容です。しかしながら、幕府には勅旨を拒む力はなく、要求を受け入れました。
慶永が就任した政事総裁職とは、幕府内外の政務を統括し、将軍を補佐するために設けられた職で、職権としては大老に相当すると考えてよいでしょう。
こちらの記事もおすすめ
幕末の薩摩藩を導いた国父、島津久光の生涯とは – Rinto~凛と~
参預会議と四侯会議
松平慶永が政事総裁職に就いていたのは1863年3月まででした。一橋慶喜と対立して職を辞したからです。八月十八の政変で長州藩と尊攘派の公家が都を追われ、禁門の変で長州藩が敗北すると、慶永は参預会議のメンバーとして上洛しました。
参預会議のメンバーは一橋慶喜、松平慶永、土佐前藩主の山内豊信、宇和島前藩主の伊達宗城、会津藩主松平容保、薩摩藩国父の島津久光です。参預会議は諸侯間の意見がまとまらず、数か月で瓦解しました。
1867年、混迷する政局を打開するため島津久光が山内豊信、伊達宗城、松平慶永らに声をかけ四侯会議を開催します。会議では長州藩の処分と兵庫開港問題について話し合われました。久光の狙いは、雄藩連合で幕府を動かすことでしたが、一橋慶喜にうまくかわされてしまいます。
結局、四侯会議が反対した兵庫開港が慶喜の粘りによって実現した段階で、四侯会議の体制も崩壊しました。
明治維新後、すべての公職を退いた松平慶永
四侯会議が頓挫したのち、薩摩藩は長州藩と共に討幕へと方針転換しました。四侯会議の失敗を受け、慶永は福井に戻ります。慶喜が大政奉還を行ったとき、慶永はこれに賛同していますね。王政復古の大号令がなされたとき、慶永は新政府の議定に就任します。明治維新後は民部卿や大蔵卿などを歴任しますが1870年にすべての公職を退きました。1890年、慶永は東京小石川の自邸で死去します。享年63歳でした。