室町時代日本の歴史鎌倉時代

【文学】「連歌(れんが)」って何?みんなで1つの歌を作る日本の集団創作ゲーム

和歌、俳句、川柳、短歌……日本の誇る短詩文化。そんな中で「連歌(れんが)」ってみなさん知っていますか?和歌の「五七五」(上の句)「七七」(下の句)を複数人で交互に詠みあって、長い長い1つの詩を完成させる集団創作ゲームです。和歌や俳句はなんとなく知ってるけれど……。古典文学でもあまり馴染みがない、マイナージャンル「連歌」。その世界をのぞいてみましょう。

基礎知識!連歌ってどんなもの?

image by iStockphoto

連歌は一言で説明すると、リレー小説ならぬ「リレー和歌」。後には形を徐々に変え、おもしろおかしい「リレー俳諧(俳諧連歌)」と進化を遂げました。みんなで集まって一座の人びとが合同で1つの歌を作るのです。名前は聞いたことがあるけれど……。日本人にも馴染みがなくて、意外と知らない連歌のルールと醍醐味をご紹介しましょう。

あなた上の句、わたし下の句

連歌を簡単に説明しましょう。和歌は五・七・五・七・七の合計31字。これは上の句「五七五」、下の句「七七」の2つの部分に分けられます。連歌では複数の人が一同に集まり、上の句(五七五)を詠んだあとに別の人が下の句(七七)を詠み、その続きの上の句をさらに別の人が詠み、さらに下の句を続けて……これを交互にずっと続けていくのです。

「長連歌(ちょうれんが)」は100句、つまり100回このサイクルを繰り返して完成させるというもの。基本は100回続けるこの「百韻」。室町時代には百韻を10作品集めた「千句」、千句を10作品集めた「万句」と大長編も作られるようにもなります。その後江戸時代にもうちょっと規模を小さく44句の「世吉」36句の「歌仙」18句の「半歌仙」という長さも作られました。

前の人の句の後に、前までの句を活かしつつ、後の人がどんなふうに膨らませることができるかを考えながら、自分の個性も出しながらみんなで1つの連歌を作っていくのです。ものすごい知識と知恵と技術が要求される、高度な遊戯だったのでした。みんなで集まりワイワイと1つの詩を作る知能ゲーム。すごいですね。

連歌のルールってどんなもの?

連歌のルールを「式目」と呼びます。式目を統括するリーダー格が「宗匠」と呼ばれる人物です。連歌に精通したベテラン連歌詠みの宗匠をサポートしつつつすべての句を記す書記役が「執筆」。連歌の座に集ったメンバーのことを「連衆」と呼びます。

かわるがわる句を作って1つの連歌を成立させる、方向性を決める第1回目が「発句」です。記念すべき第1回目は、連衆の主賓が詠むことが多いとか。この中に季語、切れ字を必ず入れなければなりません。連歌の締めくくりが「挙げ句」(揚句)です。大トリの挙げ句を詠むのは重要な役目。ここで全体の印象が決まってしまいます。慣用句「挙句の果て」は連歌のこの用語からとられているんですよ。

節操なく次々と句を続ければいいわけではありません。同じような内容を繰り替えすことは基本的にNG。これを「輪廻」と呼びます。とはいえ連歌に厳密な思想や内容はありません。連歌の醍醐味は作り手になることにあります。みんなでワイワイ集まって騒ぎながら、なるほどそう来たか、では次は……と頭をひねって遊ぶ楽しさは詠み手しか味わえません。執筆によって記された記録はあくまでもただのプロセス。想像するとワクワクしませんか?

連歌の歴史をご紹介!

image by iStockphoto

さて、和歌や俳句といった日本の短詩文化の中でもあまり有名ではない「連歌」。チームプレーの結晶であるこの詩ですが、どんな時代にどんな人びとによって育まれたのでしょうか?和歌は殿上人をはじめとした貴族たちが詠み交わした恋の歌でした。しかし連歌を進歩させたのは意外なことに、宮中の皇族でも貴族でもなく、武士や庶民だったのです。そして連歌が発展した先に待っていたものとは。連歌の歴史をたどりましょう。

『古事記』にはじまる連歌の世界

連歌の起源は『古事記』にまでさかのぼります。ヤマトタケルノミコトが東征でやって来た、都からはるか遠くの甲斐国酒折(現在の山梨県甲府市)で、こんなことをつぶやきました。

新治(にいばり)筑波を過ぎて 幾夜か寝つる

これに対して御火焼翁(みひたきのおきな)と呼ばれる従者がこんなふうに応じるのです。

日々並(かがな)べて 夜には九夜 日には十日を

この唱和が日本最初の連歌と言われています。平安時代の貴族社会でこの遊びは少しずつ発展。平安時代にはまだ、前半部を詠んだあとに後半部を別の人が詠むことを楽しむシンプルな遊びでした。しかし意外なことに、連歌が本格的に発展したのは京都から離れた東国においてです。

政治の中心は東に移っていきます。武家の人びとの中で連歌は教養、そして娯楽として発展。鎌倉時代中期、長連歌(ちょうれんが)の形式が確立されました。和歌の文化は宮中御所の貴族たちがつちかったものでしたが、さて連歌が発展したのにはどんな背景があるのでしょうか?

鎌倉時代、室町時代に全盛期!

連歌が最盛期を迎えた南北朝時代、室町時代。この時代には「講(こう)」という文化が流行していました。これは信仰を共有するコミュニティのことです。法華講(法華経好きのコミュニティ)、えびす講(商売繁盛を祈願しての講)、天神講などが盛んになります。

特に天神(菅原道真公のこと。漢詩や和歌の達人としても有名)信仰と連歌は強く結びつきました。日本の言霊信仰では、和歌などを神様に奉納するのはとても良いこと。講の集まりの間、良い連歌をみんなで作って神様に捧げるのです。

和歌もいいけど時代は連歌だ!と大フィーバー。能楽と並び、連歌は中世から近世の日本を語るにあたって欠かせない文化でした。戦国時代にも連歌は必須教養として、戦国武将たちの間で愛されていたのです。14世紀に成立した連歌の歌集『菟玖波集(つくばしゅう)』には、武家の人びとが詠んだ連歌が多く収録されています。頭脳戦の連携プレーが試される連歌は、エキサイティングな遊戯として楽しまれていました。

江戸時代、松尾芭蕉を産んだ俳諧連歌。そして衰退へ

Fermier celebrant la lune d'automne.jpg
Tsukioka Yoshitoshi (1839 – 1892) – http://www.muian.com/muian04/04yoshitoshi05066.jpg, パブリック・ドメイン, リンクによる

戦の時代が終わり太平の世が訪れます。江戸時代には「俳諧連歌(はいかいれんが)」が発展しました。これは戦国時代にすでにはじまっていた文化運動。宮中や上流階級のものだった雅な文化を、庶民のみんなで楽しもう!というコンセプトで進歩させたものが俳諧連歌です。「俳諧(はいかい)連歌」は歌の中でも面白さやおかしさを重視したバージョン。江戸時代には俳諧連歌が主に発展しました。

俳諧(はいかい)では、それまでの連歌や和歌で避けられていた俗語、漢語を積極的に使用。雅な世界を離れ、日常やエロも詠み込んだりと改革が進みました。そんな中で革命者があらわれます。あの松尾芭蕉です。芭蕉は滑稽さを含めながら、芸術的に高度な俳諧を成立させます。最終的には「かるみ」の境地に達しました。日本全国をめぐっての紀行文『おくのほそ道』が世界的にも有名です。

しかしこの時代を境に、集団ゲームの連歌自体はそこまで発展しなくなりました。連歌の冒頭「発句」だけでもいいじゃない!という見解のもと、発句のみで遊ぶのがメインになっていったのです。明治以降この発句は「俳句」に成長します。この頃、正岡子規による俳句の改革運動の中で連歌自体は廃れていってしまいました。しかし私たちになじみ深い五・七・五の短く気持ちいいあのリズムは、連歌の文化が育てたものだったのです。

次のページを読む
1 2
Share: