幕末日本の歴史江戸時代

江戸時代後期の歴史を動かした「御三卿」をわかりやすく解説!

260年続いた江戸幕府。しかし時にはトップである将軍の後継者がいないということも多々ありました。そこで新しく作られたのが今回ご紹介する御三卿だったのです。 今回はそんな御三卿について解説していきたいと思います。

そもそも御三卿とはなんなの?

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御三卿は徳川吉宗が創始した徳川家の分家であり、田安徳川家、一橋徳川家、清水徳川家の総称として知られています。

かなり後期に作られた家でしたが、一橋家からは2人の将軍を輩出したり、現在の徳川宗家の血筋は田安家の家系であるなど徳川家にはなくてはならない存在となっていました。

御三卿と御三家の違い

御三卿と似ている分家として御三家という身分があります。

御三家とは尾張徳川家、紀州徳川家、水戸徳川家の総称であり、紀州徳川家からは八代将軍徳川吉宗を輩出するなど分家の重鎮として地方を治める家柄でした。

御三家はそれぞれ尾張、紀州、水戸を治める国持大名という家柄を保持しており、幕府の幕臣として働くこともありましたが、基本的には自分の領地の経営を行なっていたのです。

しかし、御三卿の場合では決まった土地を与えられることはなく、将軍の家族としての位置付けでした。そのため土地ではなくその代わりに10万石級の家禄を与えられていました。

御三卿の特権

御三卿は御三家の格下として見られていましたが、実はこの家にはその他の大名や徳川家の分家には認められていない特権が許されていることが多々ありました。

その中の一つが参勤交代と改易の有無。

基本的には大名は2年に一度江戸に登りそこで一年お勤めをしなければなりませんでしたが、御三卿の場合は基本的には江戸にいることが基本であったため、そもそも参勤交代をする必要がなかったのです。(ちなみに、この参勤交代の免除は水戸藩も認められている)

さらに、御三卿は大名ではなく、あくまでも将軍家の分家。

そのため、改易そのものができるわけもなく、たとえ子供がいなくてもそれに見合った子供が見つかるまでは基本的に明屋敷という形で家だけが残っているという事態が起こるのもしばしばありました。

そのため、基本的にはあり得ない嫡子の養子入り(例:松平定信)も行うなどかなり自由な家であったことがうかがえます。

さらに、御三家の人が御三卿に養子に入ることもあり、(例:徳川慶喜)家柄は若干違っても家を継ぐことは多々あったようです。

御三卿の家について

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御三卿は田安、一橋、清水の三つからなっていましたが、この三つの家には幕府の経営に携わる人物を度々輩出していました。

次はそんな御三卿の各家について見ていきましょう。

田安家

田安家は徳川吉宗の次男である徳川宗武を祖とした家であり、田安門近くに屋敷を構えていたことからこの名前が付けられました。

田安家は基本的に国学などを学んでいた家系でしたが、宗武の長男は若くして亡くなり、さらには宗武の次男であった松平定信は白河藩へ養子に入ったことによって田安家は滅亡の危機を迎えてしまいます。その後は一橋家から徳川斉匡を養子に迎えて第3代当主に据えるとそこからは順調に家を継ぐことに成功して幕末を迎えることになりました。

そんな田安家でしたが、この家は実は今の徳川宗家を継いでいるそんな家でもあるのです。

1868年に大政奉還が行われてさらに江戸無血開城が行われると最後の将軍である徳川慶喜は謹慎することになります。

その時新しく慶喜の跡を継いだのが田安家出身の徳川亀之助だったのです。

亀之助は元服して第16代当主徳川家達と名乗り、駿府藩主や公爵を歴任。

明治時代には第4代〜8代貴族院議長、ワシントン軍縮会議の全権、日本サッカー協会の初代会長、1940年オリンピックの組織委員会委員長などを歴任し、大正時代には内閣の組閣も命じられるほどの立派な当主となりました。

田安家の方は斉匡の九男である徳川慶頼の家系で今も続いています。

一橋家

一橋家は徳川吉宗の四男である徳川宗尹を家祖とした家で、江戸城の一橋門の近くに屋敷を構えていたことから名付けられました。

そんな一橋家でしたが、この家の凄いところはこの家のみ将軍を輩出しているという点。

第10代将軍であった徳川家治の養子として一橋家斉が養子として徳川宗家に入り、第11代将軍に就任しました。

家斉はその後50年にも渡り将軍を歴任し、治世の間は化政文化と呼ばれる町人中心の文化が花開くことになります。

さらに、家斉がものすごく子沢山だったこともあり、娘を通じて様々な大名に一橋家の血が流れることにもなりました。

しかし、肝心の一橋本家はどうだったのかというと当主は短命で子供を残せない当主が多かった。しかし、御三卿には明屋敷という制度があったため、当主がいなくても大丈夫。

そして養子を迎えながらなんとか幕末まで引き継ぐことになります。

幕末の頃の当主は水戸藩から養子に出された徳川慶喜。慶喜は一橋家の当主として才覚を発揮していき、そして将軍後見役を経て第15代将軍に就任しました。

しかし、ご存知の通り徳川幕府はこの徳川慶喜の時代で幕を閉じることになります。

その後慶喜が将軍に就任して空席になると一橋家は元尾張藩主であった徳川茂徳が跡を継ぎ、明治時代を迎えることになりました。

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