日本の歴史江戸時代

失敗?成功?江戸の三大改革のひとつ「寛政の改革」をわかりやすく解説

寛政の改革(かんせいのかいかく)とは、江戸時代の中期に行われた徳川幕府による改革のこと。享保の改革(きょうほうのかいかく)、天保の改革(てんぽうのかいかく)とともに江戸の三大改革のひとつとして歴史に刻まれています。しかし、なぜ「改革」などというものが必要だったのでしょうか。そして成果はあったのかどうか……。今回はそんな「寛政の改革」について詳しく解説いたします。

どんな改革?寛政の改革を知るための8つのギモン

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寛政の改革とは、いったいどのような改革だったのでしょうか。今回の記事では、ほかの改革(享保の改革や天保の改革)と混同してしまわないよう、いつ・誰が・何のために……と、簡単なQA形式で解説してまいります。

寛政の改革が行われたのはいつ?どんな時代?

寛政の改革(かんせいのかいかく)は、西暦でいうと1787年から1793年に行われました。

和暦でいうと天明7年から寛政5年。天明は8年までで、そのあと寛政に代わっています。

徳川将軍は11代徳川家斉(とくがわいえなり)。10代将軍家治が病死したため、天明7年(1787年)に急遽15歳で就任した、若い将軍です。

この頃の日本は、災害や飢饉などが次々と起こり、不安定になっていました。

大きな出来事としては、まず天明3年(1783年)に起きた浅間山の噴火。天明噴火と呼ばれる大噴火が起き、火砕流や土砂、火山灰などの影響は関東一円広範囲に及びました。

これより数年前から、東日本を中心に冷害状態が続いており、農作物が不作に。そこに大噴火が起き、火山灰が空を覆って冷害に拍車をかけることとなります。土地は乾き、痩せて、もう作物が実る気配もありません。農民たちは飢え、数万人が路頭に迷うことに。これが世にいう「天明の大飢饉」です。

そのころの幕政はというと、直前まで老中として幕政を取り仕切っていた田沼意次(たぬまおきつぐ)の金満政治の影響で、幕政への信頼度やイメージが急落。飢えた庶民が怒り、一揆や打ちこわしが多発します。

様々な出来事が重なって社会が不安定な状態になっているときに、寛政の改革は行われました。

寛政の改革を行ったのはどんな人?

寛政の改革を行ったのは、松平定信(まつだいらさだのぶ)という人です。

徳川御三卿(徳川氏の一族から分立した大名)のひとつ、田安徳川家の血筋という超エリート。暴れん坊将軍でおなじみの、江戸幕府8代将軍・徳川吉宗の孫にあたります。

非常に優秀で聡明、真面目で堅実。政治家としても大変優秀だったようです。

11代将軍の候補として名前が挙がったこともあるそうですが、現実には、11代将軍となった家斉の家臣となります。

政治手腕を認められ、田沼意次が失脚した1786年の直後に老中に就任。幕政の中心人物として活躍します。

田沼意次が権勢をふるっていた頃から、反田沼政権を掲げていました。

クソがつくほど真面目で神経質、かなり疑り深い性格だったようで、その神経質さが裏目に出て、寛政の改革の評判は芳しくなかったと伝わっています。

寛政の改革は何のために行われたの?

先ほど述べたように、当時の日本では何年も農作物の不作状態が続いており、そこへ天災が重なるなど、食べ物がなく飢えで命を落とす人が続出していました。

庶民の飢えは、幕府の財政難に直結する問題です。お米が収穫できなければ、いずれ幕政に響いてきます。

しかも、肝心の幕府も、かなりの財政赤字を抱えていました。金庫はすっからかんだけれど、赤字なことがバレたら諸藩になめられて謀反が起きるかもしれない……。幕府の威厳を保つためには多少の浪費もやむなし。そんなことを長年繰り返しているうちに、江戸幕府の家計は火の車に陥ってしまっていました。

前任の田沼意次は、商人たちを儲けさせ、儲けた商人からガッポリ税金を取るというやり方で財政の立て直しを図ろうとしました。お金は集まりましたが、商人たちが権力を持つようになり、お金を積んで優遇してもらおうとする「賄賂政治」が横行。幕政はすっかり腐敗してしまいます。

長年の不作による庶民の飢え、幕府の財政難、そして田沼政権時代の腐敗。この3つからの脱却のためにも、大がかりな改革が必要だったのです。

寛政の改革とは一口で言うとどんな改革?

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寛政の改革を一口で言うと「質素倹約」

松平定信は、田沼時代と真逆のことを目指したと見られています。

無駄遣いを減らし節約しよう、というのが、寛政の改革の基本方針です。

食べるものもなく飢えている庶民にこんなこと言っても「無駄遣いなんか生まれてこの方一回もしたことねぇし、ずっと質素だし」と言われるだけだと思いますが……。

とにかく松平定信は、倹約して質素な生活をするよう言い渡します。

その中には、単に物やお金を節約するだけでなく、娯楽の粛正や風紀の取り締まりなども含まれていました。

そのため、結果的に、庶民から楽しみを奪い、文化の発展や経済の停滞を招きます。

前任の田沼意次時代には、儲けろ儲けろ金使えとばかりに、江戸中にお金がばらまかれていたのに、お上のやることは極端だ。そんな庶民たちの声が聞こえてきそうです。

寛政の改革では具体的にどんなことをやったの?

寛政の改革では、経済政策として以下のような政策がとられています。

まず「囲い米(かこいまい)」。囲い米とは、穀物を倉に貯蔵しておくこと。またはそのための制度のことです。穀物備蓄は江戸初期のころから行われていましたが、災害や飢饉の蓄えとしては十分ではありませんでした。松平定信は諸大名に対し、それぞれ倉を建てて穀物の備蓄を徹底するよう命じます。

次に「旧里帰農令」。当時、地方から大勢の農民が江戸に出稼ぎに来ていましたが、彼らにお金を渡して里帰りさせ、地元で農業をやるよう促します。農民たちに農業をやらせ、安定した年貢米の徴収をするための政策です。

さらに「七分積金(しちぶつみきん)」。これは、積み立て貯金や災害保険のようなもので、何かあった時のために、日ごろからみんなでお金を積み立てておこう、という救済基金。積み立てたお金は、災害対策や治安維持などに用いられました。

「人足寄場(にんそくよせば)」の設置も政策のひとつ。石川島というところに作られた施設で、軽犯罪者や無宿者などを集め職業訓練などを施す場所として機能していました。治安維持の意味合いもあったようです。

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