教養歴史

江戸幕府8代将軍「徳川吉宗」と彼が実施した「享保の改革」をわかりやすく解説

18世紀初めに徳川宗家の血筋が絶え御三家の一つ紀州徳川家から将軍家を継いだ人物がいました。江戸幕府8代将軍の徳川吉宗です。彼が将軍となった理由の一つは財政難に苦しむ紀伊藩を立て直したからでした。そのころ幕府も財政難。改革を行うことができる、強い指導力を持った将軍が待ち望まれていました。今回は8代将軍吉宗と彼の実施した享保の改革についてわかりやすく解説します。

紀伊藩主徳川吉宗

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徳川吉宗は御三家の一つである紀伊徳川家に生まれます。2代藩主徳川光貞の4男として生まれた彼は、紀伊藩を継ぐ可能性は極めて低いと思われていました。しかし、兄たちの早世によって思いもかけず紀伊藩を継ぐこととなります。紀伊藩主となった吉宗は傾いていた紀伊藩の財政を立て直すことに成功しました。

吉宗の誕生と紀伊藩主就任

1684年、吉宗は紀伊藩2代藩主、徳川光貞の4男として生まれました。母は紀伊藩の召使だった於由利の方。母親の身分が低いこともあって、後継者としては有力視されていませんでした。

そのためか、幼いころは家老のもとで育てられます。成長後、新之助と名を改め江戸の紀伊藩藩邸に移り住みました。1697年、吉宗は時の将軍である徳川綱吉に拝謁します。綱吉は部屋住みで自分の領地を持たない吉宗に越前国丹生郡3万石を与えました。

吉宗の運命が変わるのは1705年。この年、藩主となっていた兄の綱教、兄の急死であとを継いだもう一人の兄の頼職、隠居していた父の光貞が相次いでこの世を去りました。そのため、吉宗は思いもかけず紀伊藩の藩主となります。

紀伊藩の財政改革

吉宗が紀伊藩主となったとき、紀伊藩は幕府から10万両もの借金をしていました。借金の理由は大きく分けて二つ。一つは、宝永地震からの復興費用でした。阪神淡路大震災や東日本大震災でも明らかなように、地震が発生すると多くの人がなくなり、復興に多額の費用がかかります。

もう一つは相次ぐ藩主や前藩主の死でした。親や兄たちに対する孝行の観点からも、藩主たちの葬儀をおろそかに出来ません。

吉宗は支出の削減と収入の増加を図ります。まず、食事は質素なものとし、服装も庶民が着る木綿にして贅沢を戒めます。次に水利事業や新田開発を活発に行い、農業生産力の向上を図りました

これらの政策を実行に移すため、積極的に人材を登用します。こうした地道な財政改革により紀伊藩は借金を返済。金14万両余、米11万石余の貯蓄に成功しました。

徳川吉宗の将軍就任

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7代将軍徳川家継が幼くして亡くなった結果、8代将軍の座を尾張徳川家と争いました。最終的に8代将軍に選ばれたのは徳川吉宗です。吉宗が将軍となることができた理由は、強い指導力を持つ将軍を皆が求めたからでした。ここでは、吉宗が将軍に就任した経緯と悪化していた幕府財政についてまとめます。

徳川宗家の断絶と吉宗の8代将軍就任

6代将軍徳川家宣は儒学者の新井白石や側用人の間部詮房を補佐役として正徳の治と呼ばれる政治を行いました。ところが、家宣は将軍在任3年でこの世を去ります。

家宣の側近たちはわずか4歳の徳川家継を7代将軍にすえ、正徳の治を継続しようとしました。しかし、家継は8歳で亡くなってしまいます。直系の血筋が耐えてしまったので、徳川宗家の跡継ぎを御三家から選ぶことにしました。

有力候補は尾張藩主の徳川継友と紀伊藩主の徳川吉宗です。6代将軍家宣の妻で出家していた天英院をはじめとする大奥は吉宗を支持。さらに、新井白石や間部詮房に反感を持っていた幕臣も吉宗を支持したことから、8代将軍は徳川吉宗と決まりました。吉宗は紀伊藩主を従兄の徳川宗直に譲り紀伊藩を存続させます。

幕府財政の悪化

17世紀後半の5代将軍徳川綱吉の時代には、幕府財政は悪化していました。全国各地の金山・銀山から採掘される金銀は幕府の重要な財源でしたが、このころには産出量が減少。明暦の大火からの復興や寺社の造営費用などにより幕府の支出は増大します。

綱吉時代の勘定奉行荻原重秀は小判の金の質を下げることで差額を幕府の財源としました。また、町人から御用金や献金を取り立てることで財政の足しにすることも行います。加えて、商工業者から運上・冥加という営業税をとることもしました。

しかし、収入が不足していることや増大する出費を抑えることは徹底できず、幕府は慢性的な赤字に苦しみます。将軍となった吉宗は幕府の財政赤字解消という難題に取り組まざるを得なくなりました

享保の改革

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8代将軍に就任した徳川吉宗は本格的な幕政改革を実施します。のちの時代、吉宗による改革は吉宗時代の年号にちなんで享保の改革とよばれました。吉宗は倹約令で幕府の支出を抑える一方、新田開発や増税により収入の増加を図ります。さらに、広く意見を求める目安箱の設置や江戸町奉行大岡忠相の登用、公事方御定書の制定や実学の奨励など幅広い分野で改革をはかりました。

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