満州事変に対する日本政府の姿勢
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満州事変でも、関東軍は当時の若槻礼次郎内閣が戦線の拡大を抑えようとしましたが、関東軍は言うことを聞かず、暴走してしまいました。そのため、若槻内閣は総辞職を余儀なくされます。
本来、関東軍は、参謀本部や陸軍省といった当時の陸軍中枢の国防政策からも逸脱していたため、明確な軍規違反でした。そのため、大元帥である昭和天皇の許可なしに越境して軍事行動をする事は死刑に処される程の重罪でした。しかし、関東軍の首謀者達はこの事件で処罰を受けるどころかそれぞれみんな出世していたのです。
次の犬養(いぬがい)首相は満州国の承認を渋りましたが、それに反発した陸軍の若手士官らが五・一五事件を起こし、犬養首相を殺害してしまいます。一時軍部大臣現役武官制度は改正されていました。しかし、この時点ではこの制度は復活し、それまで20年以上続いた政党内閣は終わり、軍部が強い政権への影響力を持つようになったのです。その結果、満州国を日本政府は承認しています。
ただし、国際的には国際連盟のリットン報告で満州国は認められず、日本の全権代表だった松岡洋右は国際連盟を脱退することを宣言して、国際的に孤立するようになりました。
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傀儡政権満州国の建国にも関東軍の匂い
関東軍によって打ち立てられた満州国は日本の傀儡政権となり、初代皇帝には清国の最後の皇帝であった愛新覚羅溥儀(あいぜんかぐらふぎ)がなったのです。しかし、まったくの傀儡皇帝であり、映画の「ラストエンペラー」でも描かれたように関東軍の言いなりだったと言われています。
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盧溝橋事件も関東軍が関わっており、日中戦争に発展
さらに関東軍は、満州国の国境からさらに中国本土への進出を画策し、盧溝橋事件をきっかけとして日中間の本格的な戦争を引き起こします。これに対して、すでに軍部内閣が当たり前になっていた日本政府ではそれを押しとどめることはできませんでした。
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