室町時代戦国時代日本の歴史

天草四郎を指導者として立ち上がらせた「島原・天草一揆」についてわかりやすく解説

長崎県南島原市は有明海に突き出た島原半島の南部、雲仙岳の南側にあります。南島原市にある原城は、天草四郎とよばれた青年が一揆の指導者として立ち上がり、味方の数倍にあたる幕府軍と死闘を繰り広げた島原・天草一揆の舞台となった城でした。今回は、日本でのキリスト教の歴史や天草四郎と島原・天草一揆についてわかりやすく解説します。

日本にキリスト教がやってきた

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15世紀後半から16世紀にかけて、日本では各地の戦国大名がしのぎを削る戦国時代を迎えていました。1549年、イエズス会の宣教師であるフランシスコ=ザビエルは鹿児島で戦国大名島津貴久の許可を得てキリスト教の布教を開始。ザビエルに続き、多くのイエズス会宣教師が日本を訪れキリスト教を布教します。戦国大名たちがキリスト教の布教を許可した背景には、莫大な利益をもたらす南蛮貿易がありました。

イエズス会のザビエルが来日し、日本にキリスト教を広めた

ザビエルはスペインのバスク地方にあるナヴァラの貴族出身の人物です。彼は、同じくスペイン出身のイグナティウス=ロヨラとともにイエズス会を立ち上げます。

イエズス会発足の目的は、宗教改革で批判にさらされた教皇を守り、教会の腐敗を改めさせることにありました。ザビエルは教皇の命を受け、アジアでの布教に取り掛かります。

インドのゴアにたどり着いたザビエルは日本人アンジローと出会い、日本布教を志しました。1549年、ザビエルは鹿児島に上陸し、戦国大名島津貴久から布教の許可を得ました。

その後、山口や豊後府内(大分県)で布教活動を実施。山口の戦国大名大内義隆の保護を受けます。また、豊後の戦国大名大友宗麟をキリスト教に入信させ、九州での布教を活発化させました。

この間、ザビエルは京都にのぼり将軍との謁見を目指しますが、謁見することができず九州に戻ります。日本での布教の礎を築いたザビエルは1551年に日本を去りました。

イエズス会による本格的な日本布教

ザビエルの後に日本を訪れたイエズス会士、ガスパル=ヴィレラは将軍足利義輝から京都での布教の許可を受けることに成功します。しかし、比叡山や京都で力を持っていた法華宗の抵抗のため、布教できずにいました。

状況が変化したのは1568年に織田信長が京都を制圧してからです。信長は自分に抵抗する仏教勢力を容赦なく弾圧。キリスト教に対しては友好的で1563年に来日したルイス=フロイスは信長から布教の許可を得ました。

イエズス会は南蛮寺とよばれた教会堂や神学校(セミナリオ)を建設。豊後では大友宗麟の保護のもと、宣教師養成学校であるコレジオもつくられました。

1579年に来日したヴァリニャーニは信長の歓待を受けます。ヴァリニャーニは九州の大友宗麟・大村純忠・有馬晴信らにローマ教皇への使節派遣を提案。3大名がこれに応じて天正遣欧使節を派遣します。イエズス会による日本布教は順調に見えました。

盛んになる南蛮貿易と増加したキリシタン大名

信長や大名たちがイエズス会に好意的だった理由の一つに南蛮貿易があります。南蛮貿易とは、日本の戦国大名とスペイン・ポルトガルの商人が行う貿易のこと。

戦国大名たちが最も欲しがった南蛮貿易の商品は鉄砲や火薬です。特に、火薬の原料となる硝石は日本では得難いものだったため、戦国武将たちはポルトガル商人たちとの貿易を強く望みました。

島津氏の鹿児島港、松浦氏の平戸、大友氏の府内などが代表的な寄港地として繁栄します。もう一つの重要な物資は中国産の生糸でした。中国産生糸は日本国内で高く販売することができます。武器の調達や交易による利益があったため、九州の諸大名はキリスト教の布教に寛大でした。

中には大友宗麟や有馬晴信、大村純忠のように、自らキリスト教に改宗する者も現れます。のちに、宇土(熊本県南部)をおさめた小西行長もキリシタン大名でした。キリシタン大名の領国では、領民のなかにもキリスト教に改宗する者が現れます。

戦国後期~江戸初期の島原・天草地方

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戦国時代後期、豊臣秀吉が九州征伐を実行。秀吉の功臣であった小西行長が肥後の南半分と天草を領有。島原半島は有馬晴信が統治します。島原・天草の地はキリスト教の信仰が温存されました。その一方、中央政権はキリスト教の禁止政策を実施。江戸幕府による大名の領地替えで、島原・天草にはキリシタンではない松倉重政、寺沢広高が領主として入ることで状況が一変します。

キリシタン大名による島原・天草の統治

戦国時代から江戸時代の初期にかけて、天草半島は戦国大名の有馬晴信が支配していました。有馬晴信は秀吉の九州征伐に従い、豊臣軍の一員として活動します。

そのため、有馬晴信は島原の所領を安堵されました。有馬晴信は熱心なキリスト教徒としても知られ、秀吉が禁教令を出す前は領内に数多くのキリシタンの存在を認めています。

一方の、天草諸島はイエズス会宣教師の来訪により、キリスト教徒の一大拠点となっていました。信者の数は15,000、教会堂は30を数えたといいます。

豊臣秀吉は、天草の統治を最初は佐々成政、次いで小西行長に任せました。小西行長自身も熱心なキリスト教徒だっただけに、天草の住民としては安心して信仰を守ることができたでしょう。

豊臣、徳川両政権によるキリスト教禁止

豊臣秀吉は1585年に四国を、1587年に九州を平定し西日本を完全に支配下に置きます。九州平定後、秀吉は長崎がイエズス会に寄進されていることを聞き大いに驚きました。キリスト教の広がりに警戒心を抱いた秀吉はバテレン追放令を発布します。キリスト教は保護から禁止・弾圧の対象へと変化しました。

秀吉政権末期の1596年、土佐(高知)に漂着したスペイン船サン=フェリペ号の乗組員が「スペインはキリスト教を布教し、その後に植民地化する」といった内容の発言をしたといわれます。

この発言が秀吉の逆鱗に触れました。キリスト教に不信感を持った秀吉は京都や大坂のキリスト教徒を捕縛。長崎で処刑させます。この事件を26聖人殉教といいました。キリスト教をめぐる環境は徐々に悪化していきます。

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