日本陸軍と長州閥のトップ山県有朋の野望
日本陸軍を立ち上げた山県有朋は、その後も出世を続け、帝国議会が開催後には政府のトップとして総理大臣に上り詰めました。そして、日本陸軍の一番の重鎮になるとともに、伊藤博文が下野した後は政府に長州閥を作り、両方のトップになったのです。
彼は軍部の権力を高めるために軍部大臣現役武官制度を作り、さらに治安維持法の前身となる治安警察法を制定しています。軍部大臣現役武官制度は、内閣には必ず陸軍大臣と海軍大臣を置き、その大臣はそれぞれの軍隊の現役将官が付かなければならないとする法律でした。陸軍が現役将官の派遣を拒否すれば、内閣は成立することができなくなったのです。
このように、山県有朋は日本の政府を陸軍が支配できる体制を作ってしまったと言えます。
日清戦争と日露戦争の勝利が陸軍の野望を膨らました
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このような状況のもとで日露戦争に勝利した日本陸軍は、遼東半島からさらに中国東北部の満州に狙いをつけます。南満州鉄道はその足掛かりになり、その沿線の守備を名目に満州への進出を進めたのです。
関東軍の使命は関東(満州)制覇
このように日本陸軍が派遣した関東軍には、最初は中国東北部の満州を支配することにありました。そしてそのためには手段を選ばないという風潮があったのは事実でしょう。
その結果、中国東北部の軍閥であった張作霖の軍と盛んに戦闘を繰り返したのです。
関東軍ができてからの足跡
1919年に正式に関東軍となってからの中国大陸における動きを見てみましょう。関東軍は、当初軍トップの司令官になった山下奉文将軍にちなんで山下兵団とも言われていました。荒くれ者が多く、戦闘にはめっぽう強かったと言われています。
張作霖爆殺事件と柳条湖事件からの満州事変は関東軍が仕組んだ
当時の中国は、中華民国政府の政権を握っていた蒋介石と、各地の軍閥(政治的に独立した軍隊組織)が従わず、対立していました。同時に、ソ連の影響を受けた中国共産党も力を持ち、混乱した状況にあり、それだけに関東軍が勢力を伸ばすチャンスでもあったのです。
しかし、蒋介石が軍閥征伐を目的として北伐を開始させたことから、関東軍にとっては満州にも影響が出ることをおそれが出ました。そのため、関東軍は東北部軍閥トップの張作霖の爆殺事件をおこしてその影響を除こうとしたのです。
これに対して、当時の田中義一内閣は、この事件を「満州某重大事件」と言って、隠そうとして昭和天皇の怒りを買い、総辞職に追い込まれています。もともと、田中内閣は、蒋介石の北伐を利用して日本の利権を増やそうとしていたので、張作霖爆殺事件は都合が悪かったのです。さらに、陸軍に対して面と向かってだめだということができなかったので、天皇の怒りをかったと言えます。
しかし、張作霖のあとを継いだ張学良は蒋介石側についたため失敗しました。そのため後に、謀略によって柳条湖事件を利用して、満州事変を起こし、張学良勢力を満州から追い出し、満州国を建国したのです。
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