室町時代日本の歴史

殺伐とした時代に続いた「足利幕府」その将軍たちをわかりやすく解説

日本の中世に約240年間も続いた室町時代。この時代には南北朝時代や戦国時代なども含まれ、戦いが止むことがない、まさに戦乱の時代だったといえるでしょう。しかし、なぜそんな殺伐とした時代に足利幕府は長期に渡って存続できたのか?なぜ15代にも渡る将軍職が継承できたのか?まさに謎だらけなのです。ここでは著名な足利将軍を何人か紹介しますが、時代背景とともに彼らの生きざまを知ることもまた、中世というものを理解する一端になるのではないでしょうか。

天皇に敵対しながらも足利幕府を成立させる【初代足利尊氏】

image by PIXTA / 16294862

足利幕府を成立させ、初代征夷大将軍となった足利尊氏。彼の人生はまさに戦いに次ぐ戦いで、一時も休まることはありませんでした。武士の地位を守るためには天皇と敵対することも厭わない、その強烈な信念に多くの武士たちが付き従っていったのでした。

鎌倉幕府打倒と建武の新政

鎌倉幕府打倒に信念を燃やした後醍醐天皇の呼びかけに応じて、多くの武士たちが立ち上がりつつあった時のこと。高氏(後に改名して尊氏)は、元来は幕府の有力な御家人でしたが、幕府に対して不満を持つところがあり、天皇方に味方することに決心しました。

1333年当時、関東から天皇方を討つために畿内(近畿地方)へ出向いていた高氏は、京都にあった幕府方の一大拠点である六波羅探題を攻め滅ぼします。いっぽう関東では、天皇方に味方した新田義貞が鎌倉へ突入し、あっという間に鎌倉幕府は滅び去ったのでした。

鎌倉幕府なきあと、後醍醐天皇による政治が始まりますが、それは尊氏(この時期に改名)が思い描いていた理想の世とは程遠いものでした。鎌倉幕府打倒に尽力し活躍した武士への恩賞はほとんどなく、数々の失政で国を混乱させるばかり…要は、平安の世に逆行させるかのような時代錯誤も甚だしいバカな政治ぶりで、人心が離れようとしていくのは火を見るよりも明らかでした。

尊氏のその後の行動は、後の世でも大いに批判されることになりますが、いずれにしても尊氏は「天皇への謀反」と呼ぶに等しい行動を取ることになるのでした。

天皇と敵対。南北朝時代の始まり

1335年、鎌倉で反乱が起こり、尊氏はその鎮圧に向かうことに。しかし、乱が鎮圧された後も尊氏は鎌倉から動かず、朝廷からの上洛命令も無視。ここに至って尊氏は天皇との対決姿勢を鮮明にして京都へ進軍を開始します。

後醍醐天皇を京都から追い払って入京を果たしますが、逆に朝廷側の軍(官軍)に挟み撃ちにされ、いったん九州へ落ち延びることになりました。

翌年、九州で勢力をたくわえた足利軍は、再度京都へ進撃します。進軍途上の湊川楠木正成ら官軍を大いに打ち破り、再度入京を果たしたのです。降伏同然の和議を結んだ後醍醐天皇は、大和国吉野(現在の奈良県)へ逃れ、代わりに尊氏は皇室の別系統である光明天皇を即位させました。実質的にこの時が足利幕府のスタートであり、南北朝時代の始まりでもあったわけで、日本は泥沼の内戦状態へとすすんでいくのでした。

観応の擾乱と泥沼の内戦

この時期の日本は、さまざまな勢力が離合集散して、もはや訳の分からない状態となっていました。観応の擾乱(かんのうのじょうらん)とは、早い話が足利幕府内の内輪揉めであって、尊氏と弟直義、足利家の執事や重臣たちを巻き込んだ大規模な内乱に発展しました。この隙を突いたのが吉野へ逃れた南朝勢力で、後醍醐天皇はすでに死去していましたが、依然大きな勢力を保っていたのです。

直義は南朝と結びついて大きな勢力を得ますが、結局は足利幕府側に圧倒されて敗れ、南朝方も最盛期はこの頃までで、これ以降は凋落の一途をたどることになりました。

尊氏は、戦乱まだ収まらぬ中で54歳の人生を終えました。

将軍権力を巧みにフル活用【3代足利義満】

image by PIXTA / 18286468

江戸時代の盤石な幕藩体制と違い、足利幕府の将軍というものは微妙な立ち位置でした。武家の棟梁的な扱いではあるものの、絶えず反乱に悩まされることも少なくなく、有力大名たちの真上で危うげなバランスを取りながら存続していたのです。3代将軍義満は、そんな中で足利幕府の最盛期を現出させた稀有な人物でした。

明徳の乱と南北朝合一

足利義満という人はまさに策士のような人物で、有力大名が力を持ちすぎると挑発を繰り返して自滅させる。というようなことを得意としていました。

当時、幕府の重職を担うほどの勢力を持っていた山名氏清という大名がいて、日本の1/6ほどの大きな領地を持つがゆえに【六分の一殿】と呼ばれていました。そんな氏清たち山名氏に対して、いやらしいほどの挑発を仕掛け、狙い通り挙兵させることに成功します。

1391年、京都の近くまで山名勢を誘い込んだ義満は、これまた有力大名である細川、畠山、京極、一色、赤松、大内といった面々を戦わせ、最後のとどめとして将軍直轄の奉公衆を投入。山名勢を圧倒して勝利したのでした。義満は、策だけでなく戦いにおいてもその才能をいかんなく発揮したといえるでしょう。

また、義満の功績としては、長年敵対していた南朝と和解し、実質的に朝廷の分裂を終わらせたことも特筆すべきことですね。

次のページを読む
1 2 3 4
Share:
明石則実