室町時代戦国時代日本の歴史

戦国時代最初期の戦国大名「北条早雲」の生涯とは?わかりやすく解説

戦国時代最初の戦国大名と呼ばれることになる北条早雲。しかし、彼は本当は一からのし上がったのではないことをご存知でしょうか? 今回はそんな北条早雲について解説していきたいと思います。

伊勢氏の一員として

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北条早雲の前半生のことはよくわかっていませんが、一番有力な説を採用すると幕府の政所執事を勤めていた名門の伊勢氏一族である伊勢盛定の子として1456年に、備中国で生まれました。

北条早雲といえば浪人から伊豆・相模を治めるようになった戦国大名のはしりとよく言われていましたが、最近の研究によって本来は室町幕府第8代将軍足利義政の側近として勤務していたことが明らかとなっており、幕府の一員としてある程度の権勢を持っていたことが判明しています。

応仁の乱と今川氏との接近

1467年に応仁の乱が起こると、将軍警護の為、駿河守護の今川義忠は1000騎を率いて細川勝元率いる東軍に属します。

この参陣の時に今川義忠は政所執事であった伊勢貞親の屋敷をしばしば訪れ早雲の父とも呼ばれる伊勢盛定はその将軍に奏上を取り付ける申次衆を務めていました。

その甲斐あってか伊勢盛定は今川義忠とも親しくなり、その縁で早雲が11歳の時に早雲の姉である北川殿が、今川義忠(の正室として嫁くことになります。

早雲がある程度の地位があることがわかった今でも、当時将軍も並ぶ地位に立っていた今川氏の当主に姉が嫁いだことは早雲にとっても非常に転機になったと思われますね。

そして北川殿は1471年に嫡男・龍王丸(今川氏親)を生み、今川家の跡取りとして育てていくようになるのです。

ちなみに、早雲は15歳ごろになると父の代わりに働き、1483年には9代将軍の足利義尚の申次衆の1人となっています。

駿河に下向

後北条氏といえば関東の小田原ですが、早雲が東国に向かうきっかけとなったのが1476年。

この年になんと姉の夫である今川義忠が応仁の乱の争いの中の戦に討たれてしまったのです。

残された嫡男の龍王丸は幼少。そのために今川家は家臣の三浦氏と朝比奈氏などが義忠の従兄弟の小鹿範満を擁立するようになりました。

さらには、この今川の騒動に堀越公方足利政知と扇谷上杉家です。堀越公方からは執事の上杉政憲が、扇谷上杉家では江戸城を作った人としてもしられている太田道灌が兵を率いて駿河へ出兵。

このままいけば今川家はマズい状況に落ちいってしまいますが、ここに突っ込んだのが妹が今川家に嫁いでいた早雲でした。

「和睦に反対する方を上杉氏らは攻撃する」と双方にけしかけて龍王丸が成人するまで範満を家督代行とすることで決着。要するに上杉政憲と太田道灌を騙すようなカタチで撤兵させ、またコネを使って龍王丸の家督を認める書状も発行され争いは決着を迎えました。

今川家の問題に介入

こうして問題は解決して早雲は室町幕府の職務をするために京都に戻りましたが、龍王丸が15歳となって元服したとしても小鹿範満は家督を譲ろうとはしません。人が権力を離すことはないのですね。

これを受けて早雲は再び駿河国に下向。しかし、応仁の乱が終わり幕府の権威が失墜していることもあって早雲の権力だけではどうすることもできませんでした。

そうなると考えられるのが実力行使。早雲は龍王丸とともに兵を集めて小鹿範満が篭っている本拠地駿河館に突入。小鹿範満とその息子を討ち取りこうして龍王丸は今川氏親として正式に今川家の当主となりました。

今川氏親から見たら早雲はまさしく恩人のような人。氏親は早雲に対して興国寺城(現在の静岡県沼津市)を与えて氏親の補佐として今川家に働くことになりました。

ちなみに、この時に息子であり、後北条氏第2代当主である北条氏綱が誕生しています。

伊豆討ち入り

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こうして伊豆近くの沼津に領地を得た早雲でしたが、この頃の関東地方はかなりきな臭い状態となっていました。

関東地方は室町幕府の権力があまり行き届いておらず、永享の乱によって鎌倉公方は古河公方と堀越公方に分裂する事態となってしまいます。

堀越公方は公方としての権力はありましたが、その実態は伊豆一国をかろうじて抑えている程度。本来なら関東地方全部が手に入るはずだったのにこれでは恨みもたまります。

そんな中。足利政知が1491年になくなると後を足利茶々丸が継ぐことになりますが、その三か月後に茶々丸が弟である潤童子とその母円満院を殺害するという物騒極まりない事件が起きます。

これだけなら単なる騒動として終わるのですが、この円満院は足利義澄の母でもあり、明応の政変が起こり茶々丸の弟である足利義澄が将軍に就任すると、義澄からしたら敵である茶々丸を討伐する命令を出しました。

早雲はこの頃には室町幕府から離れていましたが、これを受けて早雲は興国寺城から兵を連れて伊豆に侵攻。そもそも評判が悪かった茶々丸につく伊豆の国人はほとんどおらず戦は早雲の勝利に終わると思われていましたが、なかなか粘り強い茶々丸がこの攻撃をなんとか耐え抜くことになります。

混乱の伊豆

伊豆の国人も仲間に入れた早雲がどうして戦を長引かせることになったのかというと、茶々丸には伊豆の国人はつかなかったものの、甲斐の武田家や山内上杉が茶々丸の援護を行いなんとか耐え忍んだことにありました。

さらには、将軍の方でも足利義澄と前将軍である足利義稙との間で争いが起こっており、それも対応しなければならない状態でした。

しかし、早雲は海軍を使って伊豆の各地に奇襲を行い、本拠地である堀越御所を攻撃し陥落。茶々丸はなんとか逃亡して抵抗しますが、伊豆深根城が陥落した時に自害し、早雲は伊豆一国を支配することになりました。

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