中国の歴史

清王朝最後の皇帝となった「溥儀」ラストエンペラーの生涯を元予備校講師がわかりやすく解説

1987年、イタリア・中国・イギリスの合作映画『ラストエンペラー』が上映されました。この映画の主人公が清朝最後の皇帝で宣統帝とよばれた愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)です。溥儀は幼くして即位し、数年で廃位されました。その後、日本がつくった満州国の皇帝となります。第二次世界大戦後、溥儀は中国に戻り生涯を終えました。今回はラストエンペラー、愛新覚羅溥儀の生涯について、元予備校講師がわかりやすく解説します。

清王朝のラストエンペラー

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紫禁城の一角に幽閉されていた光緒帝が1908年に死去すると、光緒帝の弟である醇親王の子である溥儀が即位しました。しかし、1911年に勃発した辛亥革命によって溥儀は退位させられます。溥儀を退位させた袁世凱は自ら皇帝になろうとしましたが、誰も支持せず失敗。袁世凱の死後、中国各地は軍閥が支配する混沌とした時代になります。

宣統帝の即位

20世紀初頭、中国を250年以上にわたって支配してきた清王朝は滅亡の危機に瀕していました。政治改革を目指した光緒帝西太后ら保守派のクーデタで力を失うと、清王朝は抜本的な改革を行えず衰退します。

1900年におきた義和団事件で清王朝は列強8カ国と戦って敗北。北京議定書で清王朝は外国軍隊の北京駐留と多額の賠償金支払いを認めました。

1908年に幽閉されていた光緒帝が死去。その二日後に、最高権力者の西太后が亡くなりました。光緒帝の次に即位したのは、光緒帝の弟である醇親王の子、溥儀です。溥儀はのちに宣統帝とよばれました。

わずか2歳で即位した幼い溥儀にかわって政治を取り仕切ったのが父親の醇親王です。醇親王は北洋軍閥のトップである袁世凱を退け、内閣を設置するなど改革に努めました。しかし、衰退する清王朝の力を復活させることはできません。

辛亥革命と清王朝滅亡

清王朝は列強と戦っては敗北を繰り返し、列強の中国分割を止めることができませんでした。これに業を煮やした華僑や留学生などは革命組織を結成。清王朝の打倒と外国勢力の追放を目指しました。

中でも最も精力的に活動したのが孫文です。孫文は興中会中国同盟会を結成して革命の機運を高めました。1911年、清王朝は外国資本からお金を借りるため、担保となる鉄道を国有化する政策を打ち出すと、それに反対する暴動が四川省で発生します。ついで、武昌にいた新軍が清王朝に対して反旗を翻し、辛亥革命が始まりました。

各地の反乱勢力は南京に結集。孫文を臨時大総統とする中華民国の建国を宣言します。清朝は北洋軍を率いる袁世凱を内閣総理大臣として事態を収拾させようとしました。袁世凱は孫文と取引し、自らを臨時大総統とする代わりに宣統帝を廃位します。これにより、清王朝は滅亡しました。

袁世凱の皇帝即位失敗と軍閥支配

清王朝は滅亡したものの、北京にいる袁世凱の勢力は強大でした。孫文は1913年に実施された選挙で国民党を率いて勝利。議会の力で袁世凱を抑え込もうとします。しかし、袁世凱は議会を弾圧し国民党を解散させました。孫文は袁世凱の弾圧を逃れるため、日本に亡命します。

権力を握った袁世凱は、清王朝の皇帝にかわって、自らが皇帝になろうとしました。1915年、袁世凱は年号を洪憲と定め中華帝国皇帝として即位します。しかし、袁世凱の皇帝即位に対し、北京の学生や民衆は反対運動を展開。袁世凱の部下である北洋軍の幹部たちも皇帝即位に反対します。

そのため、袁世凱は1916年に皇帝即位を断念。皇帝に即位し損ねた袁世凱は失意のうちに死去しました。袁世凱の死後、中国各地は軍事力を背景にした軍閥が各地に割拠する時代となります。

日本への接近と満州国皇帝即位

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袁世凱の皇帝即位や、その後の軍閥同士の抗争中、溥儀は紫禁城で暮らしていました。しかし、軍閥同士の争いは溥儀を巻き込みます。その結果、溥儀は紫禁城を追放されてしまいました。住む場所を失った溥儀が身を寄せたのが日本公使館です。日本租界に逃れた溥儀は結婚しました。その後、溥儀は日本がつくった傀儡国家である満州国の皇帝に即位します。

溥儀と二人の妻

皇帝位を退いたのちも、溥儀は紫禁城に住み続けることができました。袁世凱が溥儀(宣統帝)退位後も紫禁城に住み続けることを許したからです。

1922年、14歳になった溥儀は満州族の婉容(えんよう)を皇后に迎えました。このとき、婉容は17歳。溥儀の家庭教師ジョンストンから「エリザベス」の英語名を与えられます。ちなみに、溥儀は「ヘンリー」の英語名を持っていました。

同じころ、溥儀はモンゴル出身の文繍を二番目の妃である淑妃とします。溥儀と二人の妃たちは、広大な紫禁城で別々に住んでいました。そのため、互いに顔を合わせる機会も少なかったようです。

のちに、溥儀が紫禁城を追放されると二人の妻も溥儀にしたがって紫禁城を出ました。1931年、文繍は溥儀と離婚します。婉容は溥儀との仲が悪化したのち、アヘンに手を出して中毒患者になってしまいました。二人とも、幸せな後半生ではなかったようですね。

紫禁城追放と日本公使館亡命

袁世凱の死後、中国各地に軍事力を背景とした武力集団である軍閥が成立しました。袁世凱が支配していた北洋軍閥は、段祺瑞率いる安徽派馮国璋率いる直隷派に分裂し抗争します。また、清王朝誕生の地である中国東北地方(満州)には張作霖をトップとする奉天軍閥が成立しました。

中国に勢力を伸ばそうとしていた日本は段祺瑞や張作霖を支援します。1924年、北京周辺で奉天軍閥の張作霖と直隷派の呉佩孚が第二次奉直戦争を始めました。

混乱に乗じて北京を支配した馮国璋らは、溥儀に対し、溥儀の特権はく奪と紫禁城から出ていくことを命じます。これにより、溥儀と側近たちは紫禁城から強制的に排除されました。

溥儀はイギリス公使館やオランダ公使館の保護を受けようとしましたが失敗。家庭教師であるジョンストンの仲介で日本公使館に身を寄せ、天津の日本租界で暮らすことになります。

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