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犬養毅が射殺された「五・一五事件」とは?わかりやすく解説

五・一五事件とは「話せば分かる」「問答無用」で当時の首相である犬養毅が青年将校に射殺された事件で、当時の日本の経済不況を武力で打開するために、引き起こされたとされています。しかし経済の失敗を招いたのは前首相の若槻禮次郎であり、犬養毅はその後の内閣を継いだにすぎません。では何故、犬養毅は命を狙われたのでしょうか?実は犬養毅ゆえ海軍にさらなる軍縮がもたらされようとしたのです。

学校で教えられる五・一五事件とは

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五・一五事件は1932年(昭和7年)5月15日に起きた海軍艦隊派青年将校が中心となって起こされたクーデータであり、首相官邸にて犬養毅首相が射殺されました。海軍青年将校たちは、思想家の大川周明から資金の援助を受けて陸軍士官学校の生徒も合わせて主に首相官邸を襲撃したのです。その他日本銀行や警視庁、変電所も襲撃対象としましたが、ほとんど被害を与えるには至らず、東京市の首都機能を麻痺させるまでにはいたりませんでした。このクーデターによって政党内閣に終止符が打たれ、軍部独裁のきっかけとなったのです。

首相を襲撃したのがなぜ海軍なのか?

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首相を襲撃したのは、陸軍も多少は含まれていますが、士官学校の生徒であり、主体は海軍の青年将校となっています。しかし何故陸軍ではなく海軍なのか。実は海軍においては2つの派閥に分かれて亀裂が入っていました。1つは条約派であり、ロンドンの海軍軍縮条約における日本の艦隊の大幅軍縮に賛成する海軍省でした。もう1つは艦隊派であり、軍縮条約に反対の立場を取り、国際連盟を脱退してまで、独自に日本の軍事力増強を目指す、天皇直属の海軍軍令部でした。

日本海軍の指揮系統の変貌

海軍は世界共通で元々は陸軍に付属する軍隊機関でした。しかし日露戦争の勝利をきっかけに、日本の海軍は様々な努力をして陸軍と肩を並べるレベルまで地位を向上していきました。その海軍においての指揮系統は本来は海軍省にあり、組閣時の海軍大臣を筆頭として政治レベルで機能していましたが、軍令部という天皇直属の機関が統帥権をめぐって海軍省と争うことになります。軍令部は陸軍でいうところの参謀本部に当たるのですが、軍令部の地位向上のため、軍縮政策には徹底抗戦しました。そしてついに五・一五事件を経て、軍令部が海軍の全ての実権を握ることになったのです。

何故海軍軍令部は軍拡を主張したのか?

海軍は陸軍と比べて、精神論的な要素はあまりなく、むしろ合理的な要素が多い組織でした。その理由としては、艦隊などの船舶や飛行機は、燃料、編成や航行時において様々な計算が必要だったからです。陸軍は生身の人間が行軍するため、上層部において精神論で片付けられますが、艦隊は精神論だけでは動かすことはできません。こうした背景より、海軍には「管掌範囲(かんしょうはんい)」というものがありました。すなわち海軍がどこまで責任を持って国防を全うできるかといったことに対して、いろいろな条件を必要としたのです。長期戦になればなるほど、国力全体でもって備えなければならないため、責任も海軍の範疇を超えてしまいます。しかし海軍がその組織を陸軍と対等な立場で維持するためには、国力全体に関わる長期戦においても、勝利の見通しを主張できる必要がありました。

そのために、軍拡路線は必須だったのです。これは例えて言えば営業サイドでは、顧客との良好な関係維持のために見積全体が出精値引きにより減額の方向へ向かっているなか、仕様が確定していない中での開発部門の方では見積金額をできるだけ多くして予算を確保するようなものでしょう。そのような中、ロンドン海軍軍縮会議の結果の軍縮を承認する政府や海軍省の姿勢は、軍令部にとっては許しがたいものでした。海軍の艦隊派にとっては、海軍そのものの存在が日本の国体よりも上にあったのです。その海軍自体を縮小させることは何が何でも阻止する必要が出てきました。そこで実行部隊を養成したのです。

事件を起こした青年将校の処分を巡って海軍の両派閥が争った

五・一五事件で一国の首相が殺害されたことに対して厳しい処分を求めたのは、海軍の条約派でした。それは海軍省や海軍大臣自体が内閣制度の上に成り立っており、青年将校たちの起こした行動は、内閣という政治組織による国体運営に対して真っ向から否定することだからです。そこで青年将校たちへの厳しい処分によって海軍内の艦隊派一掃を試みますが、反対に艦隊派に一掃される結果になってしまいました。青年将校たちには一旦実刑判決がでますが、助命嘆願署名や恩赦によって減刑されてしまいます。そして事件の責任を負わされたのは、海軍の条約派の海軍大臣でした。

そもそも五・一五事件は何故起きたのか?

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By Osaka Asahi Shimbun – http://www.city-okayama.ed.jp/~kibic/inukaitsuyoshi.htm, パブリック・ドメイン, Link

五・一五事件は結果として犬養毅首相のみが殺害されています。他に警視庁や発電所なども襲撃対象にはなっていましたが実際にはほとんど襲撃されていないに等しいものでした。今まで海軍内の条約派と艦隊派の対立を述べてきましたが、そもそも五・一五事件は何のために起きたのでしょうか?実は犬養毅が元々の襲撃対象ではなく、犬養毅と面会する予定だったチャーリー・チャップリンだったのです。海軍の中でも艦隊派はチャップリンを襲撃することで欧米に対して事実上の宣戦布告へつなげていき、それを大義名分とした大掛かりな軍拡の計画を立てていました。

本当はチャップリンが襲撃対象だった!?

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By Zoller, Charles C. (1854-1934) – George Eastman House Publishing Trust: http://www.geh.org/ar/celeb/htmlsrc2/m198220270027_ful.html, パブリック・ドメイン, Link

チャップリンの来日は世界旅行中の立ち寄りとされています。しかし実際には日本の艦隊にさらなる削減を迫るためのチャップリンを通しての、日米交渉だったといえるでしょう。犬養毅は高齢ゆえ、日本からアメリカへ訪問するよりも、チャップリンが使者として来日することで、交渉ができるように段取りされました。しかし何故喜劇俳優だったのでしょうか?それはたとえ極秘とはいえ政治家や軍人として日本を訪問した場合には、襲撃の可能性があったからです。喜劇俳優を使者に立てることで、周囲の警戒心を解き、首相と直に交渉に入ることができるとして、犬養毅との会談が予定されました。しかしこの計画は事前に漏れてしまいます。チャップリンの裏の護衛ともいうべき海軍条約派から艦隊派へ情報が漏れてしまったのです。艦隊派はチャプリンの来日目的を知り、チャップリンを襲撃対象に定めました。

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