陸軍改革を目指した東条英機
Sweeper tamonten – 支那事変写真全集<中>(朝日新聞、昭和13年発行), パブリック・ドメイン, リンクによる
東條英機は陸軍軍人の子として生まれました。陸軍幼年学校卒業後、陸軍士官学校に進学。1905年に任官しました。その後、陸軍大学校を2浪して合格。陸軍大学校卒業後は駐在武漢としてスイスに派遣されます。若手将校らが南ドイツの保養地バーデン=バーデンで結んだ密約に名を連ねました。帰国後、陸軍大学校の教官などを経て歩兵第一連隊長に就任します。
東條英機の生い立ち、結婚、陸軍大学校入学
東條英機は、陸軍中尉東條英教の三男として生まれました。長男と次男が既になくなっていたため、長男扱いされて成長します。父の英教は下士官から士官に昇進したたたき上げといってよい軍人で、最終的に中将まで昇進しました。
東條は東京府城北尋常中学校卒業後、若いころから軍人教育を受ける陸軍幼年学校に入学します。幼年学校卒業後は、陸軍士官学校に進学しました。1905年、陸軍士官学校を卒業した東條は、1905年に陸軍少尉として任官します。
中尉昇進から2年後の1907年、東條は伊藤かつ子(カツ子)と結婚しました。夫人であるかつ子との間には三男四女を設けます。
1910年と1911年、東條は陸軍大学校の入学試験に挑みますが失敗。東條を合格させるため、小畑敏四郎や永田鉄山らが勉強会を開きます。そのかいあって、1912年に陸軍大学の試験に合格することが出来ました。
バーデン=バーデンの密約
陸軍大学校を卒業した東條は駐在武官としてスイスに赴任します。1920年には少佐に昇進。1921年にドイツ駐在となりました。
東條のドイツ赴任から3か月後の1921年10月、バーデン=バーデンに3人の日本陸軍軍人が集まります。ロシア駐在武官小畑敏四郎とスイス駐在武官永田鉄山、欧州に出張していた岡村寧次の3人。彼らは陸軍内の長州閥打倒や仲間を集めること、革新運動の断行などを誓い合いました。これをバーデン=バーデンの密約といいます。
東條は、陸軍大学校受験の時に小畑や永田の世話になっていたため、彼らのことをよく知っていました。父は、優秀な人材でありながら長州閥のために出世できなかったと考えていた東條が、彼らの言う長州閥の排除などに共鳴したとしても不思議ではありません。
歩兵第一連隊長への就任
1922年、日本に帰国した東條は陸軍大学校の教官に就任します。1924年に中佐に昇進。1926年には陸軍大学校の兵学教官になりました。1928年、東條は陸軍省の動員課長に就任します。陸軍大学校卒で洋行帰り、東條はエリートコースを歩んでいたといってよいでしょう。
1928年に大佐に昇進後、東條は東京に駐屯する歩兵第一連隊の連隊長に任命されました。歩兵第一連隊は乃木希典が第二代連隊長を務めるなど、帝国陸軍の中で名誉ある役職とされています。
エリートとして出世街道を歩む一方、配下の兵卒に対してかなり気配りしていました。兵卒一人一人の名前を覚え、叱責するときは名前で行います。当時の高級軍人としては珍しく、兵士を一人の人間として扱っていたことが伺えますね。
陸軍統制派の中心人物となった東条英機
1930年代、陸軍内部で皇道派と統制派の対立が激しくなります。東條は永田鉄山が中心となった統制派の一員として活動しました。1935年、軍務局長となっていた永田が殺害されると、東條は統制派の中心人物となります。二・二六事件で皇道派が力を失うと、統制派は陸軍の主導権を掌握し、政治への干渉を強めました。
陸軍内で対立する皇道派と統制派
1930年代、日本では国家改造運動が急速に進んでいました。国家改造運動とは、現在の政党政治を打破し、天皇中心の新しい政治によって政治を刷新しようとする運動のこと。国家改造運動を唱えた人々は天皇親政による昭和維新を目指しました。
陸軍内部で、国家改造を主張したのは荒木貞夫や真崎甚三郎らです。彼らはクーデタによる国家改造や軍部政権の樹立、天皇親政の実現などを主張しました。荒木や真崎など皇道派を支持したのは国家改造運動に共鳴した青年将校たちです。
同じ陸軍でも、軍や経済の統制を通じて合法的に国家権力を掌握し、日本を総力戦体制にしようと考えるグループがいました。彼らのことを統制派と呼びます。革新官僚や政財界とも提携しました。
統制派を支持したのは革新官僚や参謀本部・陸軍省の中堅幹部たちです。東條は永田鉄山とともに統制派に属していました。
相沢事件により永田鉄山が殺害される
1930年代中頃、皇道派と統制派の対立はますます激しくなっていました。現状の政治を打破すべきだという点では似た主張になりますが、クーデタか合法的な権力奪取か、現体制を破壊するか温存するかなど手法は大きく違っていたというべきでしょう。
1934年11月、皇道派の青年将校と陸軍士官学校生徒が重臣や元老の襲撃を計画する陸軍士官学校事件がおきます。さらに、1935年7月、皇道派の中心人物である真崎甚三郎が陸軍教育総監から更迭されると皇道派の不満は頂点に達しました。
1935年8月、永田鉄山が皇道派を追い詰める策謀を巡らしたと考えた皇道派の相沢三郎中佐は、陸軍省内の軍務局長室で執務中だった永田鉄山少将を襲撃し殺害します(相沢事件)。永田の死後、統制派の中心となるのが、当時関東軍に出向していた東條英機でした。