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栄華を極めた後北条氏の落日を見た「北条氏直」波乱万丈の30年の生涯をわかりやすく解説!

戦国時代、関東に覇を唱えたのが、北条早雲(ほうじょうそううん)から始まる後北条氏でした。しかし、5代にわたる栄華も、やがて最期を迎えます。その時当主だったのが、北条氏直(ほうじょううじなお)。時代の流れに逆らえず、豊臣秀吉に屈することとなった彼の人生は、短いながらも波乱万丈そのものでした。彼が歩んだ人生をご紹介したいと思います。

後北条氏の後継者として生まれる

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将来の後北条氏の当主となるべく生まれた北条氏直ですが、当時は武田氏や今川氏などの同盟関係に揺れる時代で、幼くして母と生き別れることになります。祖父が武田信玄でありながら、武田氏との対立は深まるばかりでした。関東の情勢が混乱を極める中で生まれた彼の幼少時代を見ていきます。

北条氏政の息子であり、武田の血も引く御曹子

北条氏直は、永禄5(1562)年に北条氏政(ほうじょううじまさ)の二男として生まれました。母は武田信玄の娘・黄梅院(おうばいいん)です。つまり、氏直は信玄の孫でもあるわけですね。

氏直の両親は、天文23(1554)年に結婚していますが、これは後北条氏・武田氏・今川氏を結ぶ「甲相駿三国同盟(こうそうんさんごくどうめい)」の一環でした。3者は互いに婚姻関係を結んだのです。

同盟の破綻により、実母と生き別れに

ところが、氏直が生まれる前に、今川義元(いまがわよしもと)桶狭間(おけはざま)の戦いで敗死すると、今川氏は弱体化します。そこを狙ったのが、同盟相手であるはずの武田信玄でした。信玄は今川氏の領地に侵攻し、これで同盟関係は破綻してしまうのです。

すると、怒ったのが、氏直の祖父で依然として力を持ち続けていた北条氏康(ほうじょううじやす)でした。そして、氏康は武田の娘である黄梅院を送り帰してしまったのです。

氏直は、わずか7歳にして母と生き別れることとなってしまいました。しかも母は離縁された翌年に亡くなってしまい、もう会うこともかなわなくなってしまったのです。

今川氏の家督を相続するはずだった?

氏直はこのころ、今川氏真(いまがわうじざね)の猶子となりました。後北条氏の息子がどうして今川の家督相続に関係してくるのか?というところですが、まずは氏真の正室・早川殿(はやかわどの)が後北条氏出身であり、氏直の叔母だったということがあります。また、今川氏真は父・義元とは異なり、戦国大名としての手腕は微妙でした。そのため、信玄の領地侵攻に対抗しきれず、後北条氏を頼ってきたのです。となれば、後北条氏としても、そのまま今川氏に影響力を及ぼすために、氏直に相続権を与えてもらう方が得策だったのですね。

とはいえ、実際には信玄の侵攻によって今川領は武田のものとなり、氏直が今川氏を継ぐことはなくなったのです。

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