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たった3分で食べられる画期的なラーメン!【チキンラーメンの登場】
インスタントラーメンの生みの親、安藤百福氏はチキンラーメンやカップヌードルなどの新しい商品を次々に開発し、96歳という長寿を全うされましたが、決して順風満帆な人生というわけではなかったようです。まず最初の壁は、たった3分で美味しく食べられるラーメンの開発にありました。チキンラーメン秘話を振り返ってみましょう。
安藤百福の生い立ち
明治43年、安藤百福は当時日本の植民地だった台湾で生まれました。幼い頃に両親を亡くし、祖父母の元に預けられて厳しいしつけの毎日を過ごしていたそうです。
学校を卒業すると図書館の司書の仕事が見つかり、祖父の仕事を手伝いながら商売のイロハを学んでいったそう。そして22歳の時にメリヤスを扱う商社を創業し独立を果たします。
日本から仕入れた質の高いメリヤスは飛ぶように売れ、百福は少なからぬ財を築きました。やがて日本へ渡ってからも幻灯機(今でいうプロジェクター映写機)を開発したり、他にも色々な事業を興しては成功を重ね、青年実業家として名を馳せていくことになりました。
しかし、この頃から百福は挫折を重ねていくようになります。戦時中は物資の横流しの疑いをかけられ憲兵隊に捕まって酷い目に遭い、戦後すぐに食品事業を立ち上げて順風満帆なスタートを切るかと思われた矢先、今度は脱税の疑いでGHQに逮捕されてしまいました。
朝ドラ「まんぷく」のヒロイン福子のモデルとなった仁子と結婚したのもこの頃でしたが、巣鴨プリズンには昭和25年まで収監されており、すでに子供もいた安藤家は苦難の時代を迎えていました。
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インスタントラーメンの発明に挑戦!
百福が巣鴨プリズンを出所した後、幸運にも大阪華銀という信用組合から懇願されて理事長に就任します。百福はかつて様々な事業に携わってきた大阪の顔ともいうべき存在でしたから、そのネームバリューは高かったのでしょう。百福が理事長だと聞けば、皆こぞって大阪華銀を利用してくれました。
ところが朝鮮戦争による特需が終わると、大阪の景気は急降下。大阪華銀の事業も行き詰っていき、昭和32年にはとうとう破綻してしまいました。百福はすべての財産を失って無一文に。残ったのは池田市にある借家だけでした。
百福はこの時47歳。その歳で人生の再出発を余儀なくされたのです。普通の人なら再起をあきらめるところですが、百福は違いました。
「失ったのは財産だけじゃないか。その分だけ経験が血となり肉となった。」
とスーパーポジティブな発想で、自分に何かできることはないか?と模索し始めたのです。
そして百福の脳裏に浮かんだのは、かつて戦後の闇市でラーメン屋台に多くの人たちが長い列を作っていたこと、そして日本人は根っからの麺類好きだということでした。
「一杯のラーメンのために、人はこんなにも努力するものか。」
期することを見つけた百福は、「お湯があれば簡単に食べられるラーメン」の開発に着手することを決心しました。それまではラーメンなんてお店へ食べに行くものでしたし、もし家庭で簡単に作れるのなら大ヒットするだろうという確信があったのです。
そこで自宅の庭に小さな小屋を建て、中古の製麺機や中華鍋などを持ち込んで試作品の開発に毎日取り組んだのでした。朝は5時から、夜は深夜の1時に至るまで研究と試作に没頭し、1年もの間、インスタントラーメンと向き合い続けることになったのです。
ついにチキンラーメンが誕生!
百福はインスタントラーメンの開発にあたって5つの目標を定めました。
・おいしくて、飽きのこない味でなくてはならない。
・家庭の台所に常備できる保存性があること。
・調理には手間が掛からないようにする。
・誰でも買える価格設定であること。
・安心安全で衛生的であること。
しかし百福は麺づくりに関してはまったくの素人。試作品を作っては失敗することの毎日でした。作っては捨て、作っては捨て、気が遠くなるような作業を繰り返しているうちに気付きます。
「食品の開発は、たった一つしかない絶妙なバランスを発見するまで、これでもかこれでもかと追及し続ける仕事」なのだと。
しかし頭では理解していても、実際に作業するとなると状況はなかなか進展しません。
ところがある日、台所へ行くと妻の仁子が天ぷらを揚げていました。熱い油の中で衣が水分を弾き飛ばしていたのです。その様子を見た百福は気づきました。「これだ!天ぷらの原理を応用してみよう!」
さっそく生麺を油で揚げてみると、勢いよく水分を弾き飛ばしてちょうど良い乾燥状態となりました。次にお湯に浸してみると、水分が抜けた穴へお湯がどんどん吸い込まれていくではありませんか。やがて時間が経つと元の柔らかい麺の状態に戻ったのです。乾燥しているため保存性もすこぶる良好でした。
また麺とセットになるスープは、乾燥させ粉末状にした上で麺にまぶしました。こうして苦労の甲斐あってインスタントラーメンが完成したのです。
百福が開発した製法は「瞬間油熱乾燥法」と呼ばれ、昭和33年8月に「チキンラーメン」の商品名で発売されることになりました。
インスタントラーメン競争時代の到来
画期的な食品といえるインスタントラーメンの開発に成功した百福でしたが、チキンラーメンの大ヒットは様々な弊害をもたらすことになりました。しかし弊害の壁を乗り越えた時、さらなる技術革新が巻き起こったのも事実です。いよいよインスタントラーメン競争時代の幕開けを迎えます。
チキンラーメン爆発的な大ヒットに!
チキンラーメンの販売を開始した百福は、「日々清らかに豊かな味をつくる」というコンセプトのもと、それまでの会社を「日清食品」へと商号変更しました。
しかし発売当時の価格は1袋35円。うどんが1玉6円の時代ですから非常に高額ともいえるシロモノでした。そのため食品問屋がなかなか取り扱ってくれず、当初は販売に苦労したそうです。
ところが大阪梅田の阪急百貨店で試食販売を実施したところ、その美味しさに触れた人々の評価がうなぎ上り。人気を聞き付けた小売り店や問屋がこぞって取り扱うようになりました。すると早くも翌年には爆発的な大ヒット商品となります。
高槻に新工場を立ち上げるものの、ついには問屋のトラックが工場前に列をなしてチキンラーメンの出来上がりを待つほどでした。やがて三菱や伊藤忠などの大手特約代理店とも契約を結び、全国へと販路が拡大していったのです。
この大ヒットの陰には、徐々に核家族化が進みつつあった日本の世帯環境と、スーパーマーケットが黎明期を迎えたことに大きな関係があります。日本人の生活スタイルがより「早く、簡単に、おいしく」を求め始めていたともいえるでしょう。
大ヒットの陰で粗悪品が出回る事態に
空前の大ヒットを記録したチキンラーメンですが、あまりの人気のために供給が追い付かず、そのために多くの他メーカーがインスタントラーメン市場への参入を図りました。最盛期にはその数なんと360メーカーもあったといわれていますね。
中には堂々と「チキンラーメン」と銘打ったニセモノが出回ったり、本物そっくりのパッケージを持った粗悪品が流通したりと、ルールなどあって無きが如くの状態となっていたのです。百福はなんとかブランドを守るために訴訟を起こしたり、特許を申請登録するなど対抗策に打って出ましたが焼け石に水。類似商品が出回るのを阻止できません。
そこで百福は気付きました。自分たちの商品が真似されるのは実力がある証拠。しかし自分の会社だけが儲かればそれで良いのか?と。
「日清食品が特許を独占して、野中の一本杉としての発展はできるが、それでは森として大きな産業は育たない。」
そう決断した百福は、日清食品1社による独占はやめ、代わりに日本ラーメン工業協会を設立。瞬間油熱乾燥法の特許を広く公開することによって業界全体での発展を目指したのです。これがインスタントラーメンの技術革新へと繋がる大きな原動力となりました。