平安時代日本の歴史

志半ばで左遷された「菅原道真」の人生を元予備校講師がわかりやすく解説

時は平安時代中期。代々学者の家系に生まれた一人の男が、学問を武器に出世を重ね右大臣まで昇進しました。彼の名は菅原道真。道真は、平安時代に絶大な権力を持っていた藤原氏に対抗したい宇多天皇に見いだされて出世。しかし、藤原氏の力は強大で最終的には大宰府に流されてしまいました。今回は菅原道真の生涯について元予備校講師がわかりやすく解説します。

平安時代初期の政局

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平安時代の初期は、天皇親政と藤原氏による他氏排斥と権力独占が並行する時期にあたります。藤原氏の中でも特に冬嗣の子孫である藤原北家は高位高官を独占。古代からいた有力氏族たちの力をそいでいきました。薬子の変を鎮圧し、蔵人頭として嵯峨天皇の信任が厚かった冬嗣と彼の子孫による他氏排斥についてまとめます。

嵯峨天皇の時代に勢力を強めた藤原冬嗣

奈良時代の末、称徳天皇が死去し天武天皇の血筋が絶えると、天智天皇の子孫であった光仁天皇が即位します。光仁天皇の皇太子で、次に即位したのが桓武天皇でした。

桓武天皇は政治と密着しすぎた仏教から距離を置くため、都を長岡京、平安京へと移します。桓武天皇のあとを継いだ平城天皇は短期間で退位。かわって、嵯峨天皇が即位します。

しかし、平城上皇が藤原薬子らとともに権力奪取をねらったため、嵯峨天皇は側近の藤原冬嗣らとともに平城上皇や薬子の動きを抑えました。これを、薬子の変といいます。

薬子の変を鎮圧した冬嗣は嵯峨天皇から厚く信任され、高官へと上りました。冬嗣は嵯峨天皇の次の淳和天皇にも仕え、朝廷の重臣となります。

藤原氏による他氏排斥その1、承和の変

冬嗣の死後、藤原北家のトップとなったのは藤原良房でした。嵯峨上皇の信任を得た良房は急速に昇進。834年には現在の閣僚に当たる参議へ、840年にはさらに上位の官職である中納言へと任命されます。

このころ、天皇の地位にあったのは嵯峨天皇の子である仁明天皇。皇太子は淳和天皇の子の恒貞親王でした。仁明天皇と良房の妹の間に道康親王が生まれると良房に道康親王の天皇即位を実現させたいという願望が芽生えたのかもしれません。

842年、朝廷の実権を握っていた嵯峨上皇の病気が重くなると恒貞親王の側近たちは危機感を覚え、恒貞親王を東国へと逃そうとします。この動きが密告され、良房の耳に入りました。

良房は仁明天皇に報告。側近の伴健岑橘逸勢は逮捕され、恒貞親王は皇太子を廃されました。この一連の事件を承和の変といいます。この事件の結果、良房は新天皇の義父となることを約束されたと言っても良いでしょう。

藤原氏による他氏排斥その2、応天門の変

承和の変から22年後の864年。天皇がいる大内裏の門である応天門が何者かによって放火され炎上するという事件が起きました。

しばらくして、大納言の伴善男が日頃から不仲だった左大臣の源信が応天門放火の犯人であると告発。これにもとづき、右大臣の藤原良相が源信を逮捕するため兵を出し、源信の屋敷を包囲しました。

藤原良房の子の藤原基経は、源信が無罪を訴えていることを父である太政大臣の良房に告げます。良房は源信が無罪であると考えたため、清和天皇に対し源信を弁護しました。

良房の弁護は受け入れられ、源信は許され、逮捕を免れます。しかし、これによって応天門放火の犯人捜しは振出しに戻りました。

今度は、伴善男が応天門に放火するのを見たという訴えが寄せられます。取り調べの結果、伴善男が放火を自供しました。捜査の結果、伴善男らは失脚し、各地に流刑となります。

この結果、藤原良房の力はさらに強まりました。菅原道真が政治家となるころには、藤原氏の力は他氏を圧倒するようになります

若き日の道真

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菅原道真といえば、学問の神様として広く知られています。道真は学問の神様の名に恥じず、優秀な学者となりました。その後、現在の香川県にあたる讃岐国に国司として赴任します。讃岐から京都に戻った道真は阿衡事件で時の権力者、藤原基経に意見書を送って事態を収拾させました。

菅原氏の家系と道真の幼少期

菅原道真は845年に生まれました。藤原良房が承和の変で藤原氏の地位を確かにし始めたころですね。

道真が生まれた菅原家は学者の家系でした。菅原家の家業とされた学問は紀伝道です。紀伝道(きでんどう)は歴史学を教える学問で、のちに漢文学を教える文章道(もんじょうどう)と統合され、歴史と漢文学を教える学問とされました。

貴族としてのランクは中級貴族。藤原北家などの上級貴族とはかなり格差があります。道真が出世するには学問を究めるのが一番の近道だったでしょう。

幸い、道真は幼少のころから学問の才能がありました。特に、センスが求められる詩歌の才能が幼少期からあったといいます。わずか5歳で和歌を詠み、神童といわれました。また、子供のうちに漢詩も作るなど抜群の才能を発揮します。

学者官僚としての出世

862年、道真は定員20名と定められていた文章生(もんじょうのしょう)に合格します。文章生の中から特に優秀な2名が文章得業生(もんじょうとくごうしょう)に任じられ、次の文章博士(もんじょうのはかせ)の候補者となりました。

道真は文章生になって5年後の867年に文章得業生になります。同時に、貴族としてのランクである位階も徐々に上げていきました。

867年に正六位下、870年に正六位上、874年に従五位下に任じられます。古代の日本では従五位以上の者は貴族とよばれました。これで、道真も貴族の一員となったのです。

877年には文章博士となり、学者としても地位を極めました。父の死後は私塾菅家廊下を主宰し、朝廷を代表する文化人とみなされるようになります。道真は、中級貴族としてのキャリアを確実に登っていきました。

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