家臣が名胡桃城事件を起こし、秀吉の小田原征伐が始まる
もともと、名胡桃城周辺は、真田氏と後北条氏が領地を巡って紛糾し、秀吉直々の裁定を仰いだ上で名胡桃城は真田昌幸(さなだまさゆき)のものとなっていた場所でした。このため、昌幸が徳川家康を通じて秀吉にこの状況を訴え、秀吉は「それは惣無事令違反だ!」と激怒してしまったのです。
加えて、氏政と氏直はこの件に関わった関係者の引き渡しや処罰を拒み、秀吉の要請による上洛も拒否してしまいました。
このため、天正18(1590)年、秀吉は大軍を率いて後北条氏を討伐するいわゆる「小田原征伐」に乗り出してきたのです。
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自身の切腹を申し出て降伏する
秀吉の軍勢は、15万を超える大軍だったとも伝わります。対する後北条軍は約8万、こちらも大軍でしたが、秀吉軍に比べれば半分に過ぎませんでした。そのため、秀吉軍に次々と支城を落とされ、ついに小田原城を包囲されてしまったのです。
氏政と氏直は籠城戦を選び、3ヶ月間持ちこたえましたが、先の見えない戦いに、氏直はついに降伏を決断します。そして彼は敵陣を訪れ、自身の切腹と引き換えに兵たちの助命を願い出たのでした。
関東に覇を唱えて約100年、後北条氏の栄光はここで終わったのです。
助命されたが…突然の死去
この助命嘆願は、秀吉の胸に響くものがあったようで、氏政や叔父・氏照が切腹を申し付けられた一方、秀吉は氏直を許し、命を助けました。
その後、氏直はわずかな家臣を連れて高野山に謹慎しますが、赦免され、1万石の大名として復活を遂げます。しかし、氏直は突然の病に襲われ、30歳の若さで命を落としてしまったのでした。
あっけない氏直の最期でしたが、後北条氏の家督は、氏直の従兄弟・氏盛(うじもり)に受け継がれ、幕末まで家は続いていくこととなります。
人生これから、というところだったのに…
北条氏直は、父・氏政の影に隠れがちな存在ですが、小田原征伐での降伏を申し入れた態度など、実に当主らしい立派な様子が垣間見られます。しかし、多くの困難に翻弄された彼の人生は、最後まで予想できないものでした。せっかく穏やかな時間が過ごせるかと思ったところでの突然の死など、神様はずいぶんひどいことをするなと思ってしまいます。