教養歴史

日蓮宗を開いた「日蓮」とはどんな人?その生涯について元予備校講師がわかりやすく解説

13世紀から14世紀にかけて、日本は武士が支配する鎌倉時代でした。この時代には仏教の新しい宗派が次々とうまれ、それらをまとめて鎌倉新仏教と呼びます。中でも、ひときわ異彩を放ったのが聖人とよばれた日蓮です。日蓮は「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」と他宗批判を展開し法華経(妙法蓮華経)への帰依と題目(南無妙法蓮華経)を唱えること(唱題)こそが、仏教で大切だと訴えました。今回は日蓮宗を開いた宗祖日蓮の生涯について元予備校講師がわかりやすく解説します。

修業に励む日蓮

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日蓮は1222年、現在の千葉県南部にあたる安房国に誕生しました。12歳の時に清澄寺に入山し得度。その後、見聞を広げるため鎌倉や比叡山延暦寺で遊学しました。仏教の本場ともいえる鎌倉や比叡山延暦寺で修業した日蓮は、法華経こそ最も大事な経典であるとして法華経への帰依を説く日蓮宗の開祖となります。

清澄寺で出家

1222年、日蓮は安房国の漁村で生まれました。父・母ともに記録は乏しいですが、日蓮が幼いころから寺で教育を受けていることから、末端の漁師ではなく、猟師のまとめ役か地頭の家に生まれたのではないかと推測されています。

日蓮は12歳の時、教育を受けるため天台宗清澄寺に登りました。寺での修行に臨む前、日蓮は虚空蔵菩薩に日本第一の智者にしてほしいと願を建てます。日蓮は清澄寺で勉学に励みました。

日蓮は、経典を学ぶ時、宗派ごとの解釈や「〇〇が述べたから」といった先入観を持たず、自身で経典の解析をおこないます。のちに、日蓮は法華経への帰依こそが絶対だと悟り他宗を非難しますが、他宗の経典を自分で見た上での批判だったので説得力を持ちました。

16歳の時、日蓮は正式に出家します。

鎌倉・比叡山延暦寺への遊学

出家した日蓮は清澄寺で修業に励みます。しかし、地方の寺院では仏典の数も限られ、指導できる僧侶も少ないのが実情です。修業が進むにつれ、日蓮は清澄寺よりも高僧がいて仏典が多数蔵書されている鎌倉や比叡山延暦寺での修行を目指しました。

1238年、日蓮は17歳の時に鎌倉に遊学します。鎌倉では禅や念仏について学びました。日蓮はこの時の成果を清澄寺に提出します。

1242年、21歳になった日蓮は京都や奈良といった日本仏教の本場に遊学。中でも、仏教の総合大学ともいえる比叡山延暦寺で熱心に仏教の研究に励みました。日蓮は比叡山延暦寺での勉学の結果、「阿闍梨」の称号を得ています。

阿闍梨とは、諸戒律を守り、弟子たちの規範となる人物を指す言葉。つまり、日蓮は比叡山から仏教の指導者たるに十分な学識を持っていると認められました

日蓮宗の開宗

比叡山延暦寺から戻った日蓮は、「妙法蓮華経(法華経)」の題目を唱える唱題行が大事だと主張するようになります。日蓮は「南無妙法蓮華経」をひたすら唱え、他のお経を唱えないことが大事だとする「専修題目」を主張しました。

これまでも、天台宗などでは南無妙法蓮華経と題目を唱えることはありましたが、題目は南無阿弥陀仏といった念仏や禅と同格のものとされています。日蓮は、釈迦がさいごにたどり着いた法華経以外は「方便」であり、唱えるべきでないと考えました。

これまで、別の名(是聖房)を名乗っていた彼が、日蓮と名乗り南無妙法蓮華経の題目だけを唱えるべきと主張したのは1253年。この時が、日蓮宗(法華宗)の開宗だと考えられます。

日蓮が念仏宗や禅宗を批判したことは大きな波紋を呼びました。地元の地頭で念仏宗の信者だった地頭の東条親子は日蓮の言動に激しく反発。日蓮に危害を加える恐れが出てきました。そのため、日蓮は清澄寺を退出します。

『立正安国論』と度重なる法難

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不明 – Daily Yomiuri, July 16, 2009 issue, パブリック・ドメイン, リンクによる

清澄寺を退出した日蓮は鎌倉に居を構えます。鎌倉に移り住んだ日蓮は松葉ケ谷の草庵を拠点に日蓮宗の教化活動を行いました。鎌倉で起きた地震をきっかけに、日蓮は「立正安国論」を執筆。時の執権、北条時頼に提出しました。しかし、時頼は日蓮の主張を取り上げません。また、日蓮の他宗批判は鎌倉でも強い反発を呼び、日蓮や信徒たちは度重なる法難に見舞われます。

『立正安国論』の執筆

1257年、鎌倉で大地震が発生し大きな被害が出ました。日蓮は自然災害の発生は何らかの警告ではないかと考え、災難を突き止めるためにどうすべきか思索します。

1258年、日蓮は駿河国岩本にあった天台宗の実相寺に入り、寺に収蔵されていた一切経を閲覧しました。大蔵経とは、仏教の全ての経典・原典をさす言葉。釈迦(お釈迦様・おしゃかさま)の教えを文字にしたもので、後世の人の注釈も載せてあります。日蓮は、仏教の大本を書いた経典に取りくんだわけですね。

これらの研究成果を踏まえ、日蓮は『立正安国論』の執筆を開始します。日蓮は、自然災害などの国難が続く理由は、為政者が正しい教えてである法華経のみに帰依せず。念仏宗や禅宗といった他宗を信仰していることにあると説きました。日蓮は為政者が進行を改めない限り、新たな国難や異国からの侵略に見舞われると『立正安国論』で警鐘を鳴らします。しかし、幕府は日蓮の主張を取り上げることはありませんでした

松葉ケ谷の法難

日蓮が他宗を排斥しようと幕府に『立正安国論』を提出したことは、他宗の信者の激しい反発を招きます。1260年、日蓮の草庵があった神奈川県松葉ケ谷は念仏宗の信者たちの襲撃を受けました

念仏信者たちの背後には当時の幕府権力者の影がちらつきます。六代執権だった北条長時や極楽寺の忍性、建長寺の蘭渓道隆ら幕府中枢にかかわる権力者や高僧たちが襲撃を示唆したともいわれていますね。

黒幕による示唆の有無はさておき、日蓮が念仏宗の信者の襲撃を受けて、草庵が焼打ちされたことは間違いありません。住処を失った日蓮は下総国に避難することとなりました。これを、松葉ケ谷の法難といいます。

下総に逃れた日蓮は、富木常忍の所領で布教活動をつづけました。松葉ケ谷の法難から一年後、日蓮は再び鎌倉に戻り、布教活動を再開します。

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