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天皇機関説とは?それを唱えた美濃部達吉がにらまれたのはなぜ?わかりやすく解説

明治時代に成立した明治憲法とも言われる「大日本帝国憲法」には、成立した当初から、天皇主権説と新たな憲法学説として登場した天皇機関説が対立した状況が生まれていました。しかし、天皇機関説は、第二次世界大戦前には危険思想として取り締まりを受けることになり、その中心人物であった美濃部達吉が捕らえられることになったのです。この天皇機関説を唱えた美濃部達吉はなぜにらまれたのかについて歴史的な流れとともに解説します。

天皇機関説と天皇主権説の対立とは

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天皇主権説は、天皇を神格化して絶対権力が天皇に集中させようとする明治憲法(大日本帝国憲法)を作った明治政府の意図の背景理論になっていました。伊藤博文がヨーロッパを回って皇帝のもとで議会が開催されていたドイツをモデルとして採用したのです。それが天皇主権説で、天皇を現人神として神格化して国民を従わさせるという立場でした。

 

しかし、明治憲法のもとで総選挙がおこなわれ、帝国議会が開催されるとそこには自由民権運動を展開してしてきた人々が多くの野党議員として政府を批判して、論争を挑みます。

同時に天皇の神格化に反対の立場を主張した天皇機関説も登場しました。当初は自由民権派を中心に帝国議会で論戦を繰り広げた野党に支えられて天皇主権説派との憲法論争を展開していたのです。

まだ、この当時は陸軍を中心とした軍部の政治への介入もなく、天皇機関説を自由に主張できる時代だったといえます。東京帝国大学教授の一木喜徳郎を中心として多くの学徒が学んでいました。

天皇機関説の主張と天皇主権説の主張の違い

天皇機関説では、国の統治権は法人である国家にあり、天皇はその統治の最高機関として内閣などの輔弼を得て統治権を行使していると主張されています。これに対する政府の主張の根拠なったのは天皇主権説で、もともと天皇は明治憲法にも記載されているように、天皇は国家そのものであるとする説でした。

どちらも統治権については天皇を最高執権者としているものの、国の主権が国家にあるとするか、天皇自身にあるとするのかの違いがあったのです。

憲法上の天皇の主権に関する論議

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すでに述べたように、伊藤博文が明治憲法の根拠としてヨーロッパで見い出だした理論は、もともと天皇が国家そのものであるという主張で、天皇主権説でした。すなわち、天皇を神格化して国家と一体のものとして、日本の国体を定め、国民、国家を統治する根拠としていたのです。その考え方は、明治初期からありました。国民を天皇のもとに統治していこうというもので、神仏集合(仏教と神社が一緒になっていること)を否定し、国家神道が重視されるようになったのもその一つです。

これに対して、明治時代の東京帝国大学教授であった一木喜徳郎は、国家法人説を唱えます。天皇は国家が抱えている諸機関のなかで最高機関であるとする天皇機関説を唱えて天皇主権説を否定し、天皇の神格化を否定したのでした。

両説は、憲法学会で対立していましたが、それを政府が介入するということはなかったのです。

明治憲法成立と帝国議会における政党の役割を正当化

天皇機関説によって野党の政党としての正当性を得た各政党には大隈重信をはじめ、多くの大物政治家が参加するようになります。ついには明治政府の重鎮であった伊藤博文も政党設立に動くことになったのです。これによって、政党も政府を率いるケースも出てくるようになり、内閣は、政府に残った山県有朋を中心とする長州閥、陸軍閥と政党が交互に政権を率いるようになりました。

天皇機関説の憲法解釈の変遷と政党政治の成立と崩壊

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一木喜徳郎の弟子である東京帝国大学教授になった美濃部達吉もこの天皇機関説を発展させて、政党の議会における役割を高めることで支持を得ることになっていきました。

明治時代中盤までは、まだ陸軍などが力を確立しておらず、天皇機関説はそれほど批判のまとにはなりませんでした。また、その後政党内閣が力を持つとむしろこの天皇機関説に対しては寛容な姿勢がとられたのです。とくに第一次世界大戦末に庶民宰相といわれた原敬が首相になって以降、十数年は政党内閣が続いていきます。同時に一木喜徳郎の弟子であった美濃部達吉が東京帝国大学教授として天皇機関説を発展させていくことになったのです。美濃部達吉は、第二次世界大戦後の1948年に勳一等旭日大章を受章しています。

しかし、政党内閣時代に外務大臣として欧米との協調体制をとった幣原喜重郎によって、軍備拡張を抑えられた軍部には不満が蓄積していきました。さらに、世界大恐慌後から続く景気悪化に国民の不満も高まって、1932年の五・一五事件で政党内閣最後の犬飼首相が暗殺されると、政治は一気に軍部支配が高まります。軍部、とくに陸軍には、天皇を神格化する天皇主権説が中心的思想となっており、天皇機関説に対しては危険思想とみなす動きが表面化していきました。

五・一五事件で軍部内閣が成立して天皇機関説は危険思想に

1930年代に入ると関東軍による満州事変、五・一五事件、二・二六事件などを通じて軍部、とくに陸軍が権力を握るようになると、政党政治は否定されるようになりました。天皇を神格化して軍部の政治支配を正当化しようとする動きが高まったのです。

そうなると、美濃部達吉などが主張する天皇機関説はそれを阻むものされ、天皇機関説は危険思想として問題視されるようになっていきます。その結果、美濃部達吉などの天皇機関説を唱える政治学者は逮捕されることになったのです。

美濃部達吉は、第二次世界大戦後に東京都知事を務めた美濃部亮吉のお父さんにあたる人でした。

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