ハーグ密使事件の背景
明治維新後、日本政府は欧米列強にならって積極的な海外進出を図ります。日本が第一の目標としたのが台湾と朝鮮半島でした。朝鮮半島について、日本政府は日本本土の主権を守るためには朝鮮半島を含む利益線を自国の勢力圏として防備する必要があると考えます。日本が朝鮮半島から清国やロシアを排除し、自国の勢力下においた過程を見てみましょう。
日本と清国が争った朝鮮問題
1875年、江華島事件をきっかけとして日本は朝鮮国と日朝修好条規を結びました。日朝修好条規では釜山・元山・仁川の3港を開港させ、領事裁判権を認めさせます。また、日本は朝鮮の完全を免除されるなど、日本に有利な不平等条約でした。
朝鮮では開国後、攘夷を主張し清の助けを借りて日本に対抗するべきという事大党と日本にならって近代化を進めるべきという親日派が対立します。1882年の壬午事変や1884年の甲申事変では、いずれも清国寄りの事大党が勝利しました。
甲申事変後、悪化した日清関係を改善するため天津条約を締結。天津条約では日清両軍の朝鮮半島からの撤兵と、朝鮮半島に両国が出兵する必要が生じた場合、相互に通告しあうことなどが定められました。
日清戦争による清国の排除
1894年、朝鮮半島で減税や排日を要求する東学党が反乱を起こしました(甲午農民戦争)。反乱鎮圧に苦慮した朝鮮政府は清国に出兵を要請します。清国は天津条約に基づいて日本に出兵を通告しました。
すると、日本も朝鮮半島に軍を派遣します。日本の介入を知った朝鮮政府は農民反乱軍と講和を結び、日本が出兵する理由をなくしようとしました。
それに対し、外相の陸奥宗光はこの機に清国勢力を排除して朝鮮半島を影響下に置こうと考えていたため、撤兵に応じず日清両国による朝鮮政府の改革を提案します。清国や朝鮮政府が日本の提案を拒否したため、日本は朝鮮政府に圧力をかけました。
1894年7月25日、日本海軍は豊島沖で清国艦隊を攻撃。日清戦争が始まります。日清戦争は近代化に成功した日本軍の優位に進み、1895年の下関条約で日本の勝利が確定しました。条約で清国は朝鮮国に対する宗主権を放棄。朝鮮半島から排除されます。
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日露戦争の勝利と英米への根回し
日清戦争の敗北により、弱体化が周知のこととなった清国は、欧米列強のターゲットとされてしまい、領土が次々と分割され急速に衰退しました。
清国にかわって朝鮮半島進出をもくろんだのがロシア帝国です。ロシアはシベリア鉄道を完成させ、アジアに大兵力を動員できる体制を整えます。日本は日英同盟を結んでロシアの圧力に対抗しました。
1904年、日本とロシアは戦争状態に突入。日露戦争が始まります。日本は強敵であるロシアとよく戦い、多くの犠牲を出して旅順要塞を陥落させました。また、陸上での一大決戦である奉天会戦や海上の決戦である日本海海戦にも勝利。ロシアの継戦意欲を低下させます。
1905年、アメリカの仲介で日ロ両国はポーツマス条約を締結しました。これにより、朝鮮半島は日本の勢力圏として確定します。日本はアメリカとの間で桂=タフト協定、イギリスとの間に第二次日英同盟を締結し、朝鮮半島が日本の勢力圏であることを承認させました。
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第一次・第二次日韓協約
下関条約で清国が独立を認めた朝鮮では、国号を大韓帝国(韓国)と改めます。朝鮮国王の称号も、清国皇帝と同格となるよう大韓帝国皇帝と改めました。
日露戦争がはじまると、韓国は中立を宣言します。しかし、日本は仁川に軍を上陸させ京城(ソウル)の韓国政府に圧力をかけ、日本の軍事行動への協力を約束させました。
1904年5月、韓国はロシアと結んでいた条約をすべて破棄させられます。同年8月、第一次日韓協約を締結し韓国は日本政府推薦の財政・外交顧問の採用と、重要事項の事前協議が決められました。
日露戦争後、日本は韓国との間に第二次日韓協約を締結します。第二次日韓協約に基づき、日本は韓国の外交権を取り上げ、統監府を設置しました。初代統監には伊藤博文が任命され、韓国に乗り込みます。