堺随一の商人として成功した今井宗久
日本の歴史に大きな名を残すことになる今井宗久(いまいそうきゅう)ですが、彼の出自は普通の商人とは少し違っていました。やがて商才を開花せた彼は、堺でも指折りの大商人へと成功することになるのです。
元々は武家出身だった?
戦国時代~安土桃山期に活躍した豪商たちの出自をひも解いてみると、たいていは商家の〇代目を継いだという経歴が出てきますね。元々がお金持ちだったというバックボーンがあるわけです。ところが宗久の場合、商家の出ではなく、れっきとした武士階級の出身だったわけですね。なぜ商人に鞍替えしたのでしょうか。
近江の守護京極氏の変遷をまとめた「江北記」には、被官(いわゆる家来)として「今井・河毛・今村・赤尾・堀・安養寺・三田村・浅井・弓削・河瀬・二階堂」といった国人土豪層の名前が挙がっていますね。宗久の先祖もまた今井氏の流れを汲む一族だったと思われます。
何らかの理由で大和国(現在の奈良県橿原市)へ移住してきた今井一族は、その地を「今井」と名付け、1520年に今井氏高の息子として生まれてきたのが宗久でした。今井一族は本願寺(一向宗)と深い関わりがあり、今井を拠点として一向宗が大和国一円に広まるきっかけとなりました。
宗久の若い頃の名は兼員(かねかず)といい、青年期から本願寺門徒として活動していたようです。しかし父氏高は一族の三男ですし、兼員もまた思うような立身出世は望めなかったことでしょう。ついに彼は今井の町を飛び出す決心をしたのでした。
宗久のふるさと「今井」
本願寺が建てた称念寺という寺内町が「今井」の町の起こりだとされ、町の周囲に土塁や空堀が巡らされて、民衆や門徒たちを守っていました。
その後、織田信長の時代になって武装解除した今井町は、経済力豊かな商人の町として生まれ変わりました。その繁栄ぶりは「海の堺、陸の今井」と称されるほどで、やがて江戸時代になると幕府直轄地として厚く保護されたのです。
幕府の許可を得て、惣年寄や町年寄を置き、警察権なども与えられて自治的特権を有した今井町は、すでに自治都市としての性格を失った堺を横目に発展していくのです。
現在の今井町は、江戸時代の街並みの様子が色濃く残り、9件の建物が重要文化財に、また3件が県指定文化財に指定されるなど、非常に風情のある雰囲気が漂っていますね。
武野紹鴎の娘婿となる
さて立身出世を志した兼員は、日本随一の大都市堺へやって来ます。当時の本願寺と堺の関係は非常に友好的で、石山本願寺の伽藍の建設にあたって、堺の町衆たちも協力したそうですから、本願寺門徒として堺に移住することに何の問題もなかったことでしょう。兼員は堺の商人だった納屋宗次の屋敷に寄宿することとなりました。
兼員は商人として成功するため、納谷家から商売のイロハを学ぶかたわら、様々な教養も身に付けねばなりませんでした。連歌や書などもそうですし、特に茶の湯は、当時流行の最先端を行く芸術だったのです。
彼は武野紹鴎から茶の湯を学んだといいます。同門に千利休や津田宗及といった、後年に大きく名を成す茶人たちもいました。やがて紹鴎に気に入られた兼員は娘婿となり、家財や茶器などを譲り受けることになります。
紹鴎もまた出自が武士(若狭武田氏)ですし、「武士が野に下る」という意味で武野と名乗ったそうですから、兼員とよく似た境遇だったといえるでしょう。出身も同じ大和国ですから、なおのことですね。
やがて納谷家から独立し、薬種業を営むに至りました。これで立派な商人となれたわけです。また剃髪して宗久と名乗るようになったのもこの頃のことでした。
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時代の潮流に乗って多角経営に乗り出した宗久
宗久が堺で活動を始めた頃と時を同じくして、種子島に鉄砲が伝来しました。商人は機を見るに敏でなくてはならず、宗久もまた生来その才覚があったのでしょうか、鉄砲の時代がやって来ることをいち早く予測していたのです。
全国へ向けて甲冑の材料などを販売していた宗久は、すでに戦国大名たちとのパイプを持っていました。1548年に火薬の原料となる硝石を大量に買い入れ、4年後には河内鋳物師たちをたくさん雇って鉄砲の製造に乗り出したのです。当時、河内鋳物師たちは「大久保千軒」と呼ばれるほどの金属加工拠点を築いていたとのこと。かれらの優れた金属加工技術をもってすれば、国産鉄砲の製造が可能だと判断したのでした。
鉄炮の製造が軌道に乗ってくると、芝辻清右衛門や橘屋又三郎らも同様に鉄砲製造に乗り出し、堺の町は日本で有数の鉄砲一大産地となったのです。
また宗久は得意の茶の湯を通じて、堺の豪商や武将たちと交流を深めていき、いつしか堺の会合衆の仲間入りを果たすことになりました。
1555年に義父の紹鴎が亡くなり、子の宗瓦の後見人となった宗久。武野家の財産や茶器などをすべて任され、彼は名実ともに堺を代表する豪商となったのです。
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織田信長との蜜月の時代
混沌とした戦国の世から、やがて新しい時代を迎えつつある日本。その主役となったのが織田信長でした。武威をもって天下を統一しようとする信長に対し、堺の顔役となった宗久はどう向き合うのでしょうか。
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信長との謁見
宣教師ヴィレラによって「東洋のベニス」と謳われた堺の町ですが、信長の上洛によって状況は一変します。宗久にしても、信長がどういう男であったかは噂に聞いていたことでしょう。若くして今川義元を倒し、尾張や美濃を支配下に治めたという人物像に興味を惹かれたはずです。
1568年、圧倒的な武力で上洛を果たした信長に対し、堺の会合衆たちは様子見の態度でした。そんな中、宗久が単独で信長に会いに行き、謁見を申し込んだのです。
「三好さんとこは、当主の修理大夫さま(三好長慶)が亡くなりはって家もバラバラ。次に天下人になるのは織田さま以外に考えられへん。いずれにしても取り入っておいて損は無いやろな。」
茶人らしく名物茶器を携えて信長に謁見します。当時の信長は34歳という脂の乗った壮年武将。とはいえ文化的素養もあり、茶の湯の作法もきちんとわきまえていました。それもそのはず、信長の父信秀の代から多くの公家衆を招いては和歌や茶の湯を嗜んでいたのです。
茶をふるまった宗久は内心驚いていました。
「この御方、ただの田舎大名やと考えてたんやが、さにあらず。これはとんだ麒麟に化けるやもわからんな。」
宗久は持参していた名物「紹鴎茄子」「松島の茶壺」を二つとも信長へ献上しました。信長がたいそう喜んだことは言うまでもありません。