首相就任前の原敬
原敬は幕末の1856年、盛岡の南部藩の家老の家に生まれます。南部藩が戊辰戦争で賊軍となったため、原家は土地・屋敷を全て売却して賠償金に協力しなければなりませんでした。立身出世を目指す原は上京。陸奥宗光の引き立てで外務官僚として出世します。伊藤博文が立憲政友会を組織すると伊藤や面識のあった井上馨の勧めで立憲政友会に入党。政党政治家として立憲政友会の党勢拡大をはかりました。
生い立ちと学生時代
1856年3月15日、原は南部藩の家老の家に生まれます。1868年に戊辰戦争が起きると、南部藩は奥羽越列藩同盟に加盟し新政府軍と交戦しました。そのため、南部藩は賊軍とされてしまいます。
戊辰戦争後、南部藩は新政府に賠償を支払わなければならなくなり、家老の家である原家も賠償に協力。土地や屋敷を売却しなければなりませんでした。
明治政府が成立すると、政府の中心に行った薩長などの人々は戦争に敗れた東北諸藩を「白河以北一山百文」と蔑視します。東北地方出身者の価値は100文程度しかないというひどい侮蔑でした。
原は後年、自らの号を「一山」としますが、この時の悔しい思いを見返したいという反骨精神が伺えますね。
原は1872年に上京。カトリック系の寄宿学校に入学します。その後、司法省法学校に入学しますが、学校内のトラブルに関連して退学。報知新聞や大東日報などの記者となって生計を立てました。
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陸奥宗光との出会いと外務官僚としての出世
政府系新聞である大東日報の記者時代に明治政府の要人たちと出会った原は外務省に入省します。1883年に清国の天津領事、1885年にパリ駐在の外務書記官などとして在外公館に勤務しました。
帰国後、農商務省の参事官や大臣秘書官となります。外務官僚や農商務省の官僚として経験を積んだ原を引き立てたのが陸奥宗光でした。陸奥は「カミソリ」の異名を持つ切れ者政治家です。陸奥の目に留まったということは、原の仕事ぶりが素晴らしいものだったからでしょう。
第二次伊藤内閣で陸奥が外務大臣に就任すると原は外務省の通称局長に就任します。日清戦争後の1895年には外務省の事務方トップである外務次官に就任しました。陸奥が病気になった時は原が外務大臣の実務を担当します。
1896年に陸奥が外務大臣を辞めると、原は朝鮮公使に転任しました。その後、外務大臣に折り合いの悪い大隈重信が就任すると原は外務省を退官。大阪毎日新聞の社長となりました。
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立憲政友会入党と立憲政友会の党勢拡大
1900年、伊藤博文が立憲政友会を立ち上げると原は伊藤や井上馨の勧めもあって立憲政友会に入党します。原は党の実務を預かる幹事長に就任しました。
1900年12月、第4次伊藤内閣の逓信大臣だった星亨が汚職事件の責任を取って辞任すると、原が逓信大臣に任じられます。1901年、桂太郎内閣が成立すると原は閣外に去りました。
党務に専念した原は積極主義を採用し立憲政友会の党勢拡大を図ります。積極主義とは、鉄道敷設など地方に利益を誘導することと引き換えに政党への支持を獲得する考え方のこと。
積極主義は「我田引鉄」などと評され批判されますが、政友会への支持を確実に上昇させ党勢拡大に寄与します。党内最大の実力者となった原は伊藤や西園寺をバックアップし政友会の屋台骨として活躍しました。
桂園時代の黒子
20世紀初頭、日本政界は山県有朋をトップとする藩閥勢力と伊藤博文や西園寺公望をトップとする政党(立憲政友会)が中心となって政治を行っていました。山県は同じ長州出身の桂太郎を支援し、第一次桂内閣を成立させます。
1904年、日露戦争が開戦すると桂太郎は国内政治を安定させるため、政友会に協力を求めました。原は桂と密約を結び、桂の首相辞任後は西園寺を首相とするという約束を取り付けます。
戦争が終結した1905年の末、桂内閣は総辞職。翌年の1906年に第一次西園寺内閣が成立しました。この時、原は重要閣僚である内務大臣として入閣します。
政友会のナンバー2として黒子の役割に徹した原は藩閥勢力のトップである山県有朋との関係を改善。山県のメンツをたてつつ政治を行いました。同時に藩閥勢力の切り崩しも行い、政友会の勢力拡大も行います。
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首相就任後の原敬
第二次西園寺内閣が大正政変によって倒されると、西園寺は立憲政友会の総裁を辞任。原が総裁となりました。1918年、原は内閣総理大臣に推薦され原内閣が成立します。原は政友会の積極主義を政権の主軸として政治を行いました。しかし、多くの人々が望んだ普通選挙に対しては消極的で人々の失望を買ってしまいます。1921年、原は政策に不満を持った右翼の一青年の手によって暗殺されてしまいました。
日本初の本格的政党内閣
1916年10月9日、朝鮮総督だった寺内正毅は第18代内閣総理大臣に任命されました。寺内内閣は藩閥や官僚によって支持された超然主義の内閣です。超然主義とは内閣は議会や政党に制約されずに行動すべきだとの主張のこと。
寺内の頭の形が当時流行していた「ビリケン人形」にそっくりで、超然主義は憲法を尊重しない「非立憲」内閣だとの批判を込めて「ビリケン内閣」と称されました。
1918年、シベリア出兵に関連して米騒動が発生すると寺内内閣は鎮圧に軍隊を動員。これが問題とされ寺内内閣は総辞職に追い込まれました。かわって組閣したのが原敬です。
原は陸軍大臣、海軍大臣、外務大臣などを除くすべての閣僚を立憲政友会の党員から採用しました。そのため、原の内閣は「本格的政党内閣」だといわれます。原内閣の基本政策は、対英米の協調主義、積極主義による国内整備、政党の影響力拡大でした。
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