- 国家は、もともと一つの団体であり、法律上では人格を持っている
- 統治権は、その法人である国家に属している権利である
- 国家は、いくつもの機関(内閣、議会など)によって機能しており、日本の場合にはその最高の機関は天皇である
- したがって、国の統治をおこなう最高決定権である主権は、天皇が持っている
- 国の最高機関に属する組織が変われば政体は変わりうる
このように、天皇の神格化を否定して、議院内閣制度による内閣の役割を重視した憲法学説として、1930年代頭までは、政党政治のバックボーンとなっていました。この学説を学ぶ学生も多かったのです。しかし、軍国主義化の波は、次第に美濃部達吉を追い詰めていくことになります。
天皇機関説事件で美濃部達吉らは捕まる
1932年の五・一五事件によって犬飼首相が殺害されて、憲政の常道が否定されるようになると軍部の天皇機関説に対する批判は高まっていくことになりました。当時美濃部達吉は貴族院議員であったが、非難に対して議会で美濃部は弁明に立たざるを得なくなり、1935年に最終的に不敬罪の疑いで当局の取り調べを受けることになったのです。その結果、議員を辞職せざるを得なくなります(結局起訴猶予)。その後、達吉は暴漢に襲われたこともありました。
この当時は、1925年に治安維持法が成立して天皇を批判するような意見は法的に検察、憲兵からの迫害を受ける傾向が強まっていたのです。美濃部達吉は、そのほかにも、著書3冊が出版法違反として発禁処分となる。さらに大学などで教えることも禁止されました。
第二次世界大戦後には天皇機関説は憲法理論の政治的役割を終える
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もともと昭和天皇は、美濃部達吉の天皇機関説に対しては好意を持たれており、美濃部が批判の的なっていることには憂慮されていたようです。また、平成天皇も、皇太子時代に天皇機関説事件を批判しています。
ただ、第二次世界大戦後、美濃部は憲法改正には反対していたようです。天皇の神格化には反対していたものの、天皇機関説では天皇の統治権は認めており、その維持を主張していたのでした。しかし、GHQ主導で新憲法が作成されます。そのなかで国民主権原理が取り入れられて日本国憲法が成立したことから、天皇の統治権を認める天皇機関説は憲法学説としての役割を終えたのです。
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