日本の歴史江戸時代

夫に殺された「築山殿」は果たして稀代の悪女なのか!?それとも悲劇の主人公?

戦国時代の悪女の筆頭格として有名なのが、築山殿(つきやまどの)という女性です。徳川家康の正室だった彼女ですが、息子・信康(のぶやす)と同時期に非業の死を遂げました。そして、その命令を下したのは、他ならぬ夫・家康だったというのですから、その死に隠された事情を勘繰らずにはいられません。果たして本当に彼女自身は悪だったのでしょうか?では、築山殿の生涯をご紹介していきましょう。

今川一族から若き日の徳川家康に嫁ぐ

image by PIXTA / 14822266

築山殿の出身は、今川氏に連なる一族でした。父は今川の重臣であり、築山殿自身も今川宗家に近い血筋だったと言われています。そんな彼女が嫁いだ先が、当時人質として今川領の駿府にやって来ていた松平元信(まつだいらもとのぶ/後の徳川家康)でした。では、彼女の前半生を見ていきましょう。

父も母も今川の血を引く

築山殿は、今川氏の重臣である父・関口親永(せきぐちちかなが)と、今川義元(いまがわよしもと)の妹ともいわれている母との間に生まれました。母に関しては、今川義元の側室だったという説もありますし、井伊一族の者だったとも言われています。

父・親永はもともと瀬名(せな)氏の出身でしたが、関口氏へ養子に入っていました。このため、築山殿は「瀬名姫」と呼ばれることもあります。ただ、今回は「築山殿」で統一していきたいと思いますのでご了承ください。

松平元信(徳川家康)との結婚

弘治3(1557)年、築山殿は松平元信と結婚します。彼こそ、若かりしころの徳川家康。弱小勢力だった松平氏は、幼かった家康を人質として今川に送り、駿府で彼は成長していたのでした。当時15歳。築山殿の生年は不詳ですが、家康と同い年か少し上だったと言われています。

今川義元との血のつながりが濃いとされる築山殿を、弱小の松平氏が娶るということは、当時としては意外なことでした。松平側からすれば、この上ない栄誉ということになります。ここには、今川と松平の結び付きを強め、ゆくゆくは松平の領地である三河(愛知県東部)を取りこもうという今川義元の思惑があったということです。

夫に置き去りにされる

永禄2(1559)年に長男の信康、翌年に長女・亀姫を産んだ築山殿ですが、この年に世間を震撼させる出来事が起きています。桶狭間の戦いで、今川義元が織田信長に討たれてしまったのです。まさかの事態は、おそらく築山殿にとっての長女誕生の喜びを薄れさせたに違いありません。

しかも、今川方として従軍していた夫・家康が、義元の討死を好機と見て、今川から離脱して故郷の岡崎城(愛知県岡崎市)に帰ってしまったのです。もちろん、築山殿と2人の子供は駿府にいたままだったので、人質として残されたようなものでした。

乳飲み子を2人抱え、夫はすでに主家を離脱し、遠く離れた場所にいる…実家があり、自らも今川一族であるとはいえ、築山殿は不安な思いを抱えて暮らしていたと思われます。

夫の城にすら入れず、夫婦関係は破綻?

image by PIXTA / 33797478

今川氏の人質状態から抜け出すことができた築山殿ですが、夫・家康との距離は広がっていくばかりでした。実家の両親は家康が今川を裏切ったことで自害に追い込まれてしまい、孤独になった彼女に残された生きるよすがは、息子の信康だけとなっていくのです。彼女に降りかかる悲劇の始まりでした。

人質交換で家康のもとに

夫は岡崎へ帰ってしまい、人質状態のまま駿府で日々を過ごしていた築山殿ですが、そんな彼女の不安をさらにあおるかのように、夫・家康は織田信長と同盟を結びました。今川にとっては、織田信長は今川義元を討った宿敵中の宿敵。そんな相手と同盟を結んだ家康は、もはや今川方とはみなされなくなっても当然でした。

その上、家康は三河にある今川方の城に攻め込んだのです。ただ、ここで彼が捕らえた今川方の武将の一族が、築山殿と子供たちの帰還に役立つこととなりました。家康の家臣・石川数正(いしかわかずまさ)が駿府を訪れ、捕らえた今川方の一族と築山殿たちの人質交換を成立させたのです。こうして、ようやく築山殿と子供たちは家康のもとへと向かうことができたのでした…と言いたいところですが、少々違う展開となりました。

次のページを読む
1 2 3
Share: