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明治陸軍形成に大きな影響を与えた軍政家「山県有朋」の生涯を元予備校講師がわかりやすく解説

幕末激動の時代に長州藩に生まれた山県(旧字は山縣)有朋(やまがたありとも)は、高杉晋作が創設した奇兵隊に所属し頭角を現しました。明治時代になると、暗殺された大村益次郎の跡を継ぎ、軍政家として明治陸軍の形成に大きな影響を与えます。また、二度にわたって総理大臣を務めるなど、政治家としても活躍しました。今回は山県有朋の生涯について、元予備校講師がわかりやすく解説します。

長州藩士、山県有朋(山県狂介)

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足軽以下の身分である中間の家に生まれた山県は、槍などの武芸を鍛えることで立身出世を図ります。高杉晋作が奇兵隊を創設すると、山県は奇兵隊に入隊。しだいに、頭角を現しました。高杉が奇兵隊総督の任を解かれたのち、山県は奇兵隊の軍監となりました。高杉が功山寺挙兵を行うと奇兵隊の実権を握った山県は高杉を支持。その後の長州征伐で活躍しました。

生い立ち~青年時代

山県有朋は1838(天保9)年に、長州藩萩城下近郊にある川島村に生まれました。山県の家は足軽よりも身分が下の武家奉公人です。脇差一つをさして、平時は雑用、戦時には武士の伴として参陣する中間の家柄でした。

山県は槍術などの武芸を磨くことで、身を立てようと考えます。また、父から学問も習い、下級ではありましたが役人として藩に出仕することができました。

1858年、山県は長州藩の諜報員として京都に潜入。伊東俊輔(のちの伊藤博文)らとともに京都で情報収集にあたります。

この時、久坂玄瑞吉田松陰の門下生から影響を受けた山県は、帰藩後、松下村塾に入塾しました。入塾の数か月後に、吉田松陰は安政の大獄で捕らえられ獄死するため、松陰から教育を受けた期間は短いと考えられます。

奇兵隊入隊と功山寺決起

1863年2月、山県は再び京都に向かいました。この時、松下村塾の塾生で、京都で活動中の高杉晋作と出会い、親交を深めます。6月、高杉晋作が下関で奇兵隊を組織しました。高杉は奇兵隊を身分にとらわれない新しい軍隊とします。

高杉は、下級武士や農民、町人などから志願者を募り部隊を組織しました。山県も奇兵隊に参加。持ち前の槍の腕前などにより頭角を現します。高杉が下関の教法寺で起きた奇兵隊と藩の正規部隊である撰鋒隊との衝突の責任を問って奇兵隊総督を辞任すると、山県は奇兵隊の副官にあたる軍監に就任しました。

1864年、高杉は長州藩内の幕府恭順派を打倒するため功山寺決起を敢行。山県は最終的に高杉に味方し、恭順派の部隊を打ち破ります。

長州征伐での活動

1866年、恭順派が失脚し反幕府派が実権を握った長州藩に対し、幕府は第二次長州征討を発令します。幕府軍は山陰、山陽、瀬戸内海、九州の四方面から長州藩領に攻め込もうとしました。

山県は高杉と共に奇兵隊を率いて九州の小倉方面に出撃します。九州方面の中心を担ったのは小倉藩と肥後熊本藩の軍勢でした。

小倉藩軍は数の上では長州藩・奇兵隊を上回りましたが、装備面では旧式です。鎧兜に火縄銃や槍といった戦国時代さながらの装備の小倉軍に対し、奇兵隊は連続射撃が可能なゲベール銃を装備し、火力の面では小倉軍を上回ります。

小倉軍は肥後熊本軍の支援も受けましたが、総司令官小笠原長行の指揮に不信感を抱き、兵を引いてしまいました。孤立した小倉軍は長州藩軍に敗れ、小倉城に火を放って撤退します。

戊辰戦争への参戦

1868年、鳥羽伏見の戦いが起きると、奇兵隊にも出陣命令が下りました。山県は奇兵隊を率いて江戸に到着します。この時、西郷隆盛と面識を持ちました。また、一時大坂に戻った時に桂小五郎(木戸孝允)とも面識を持ちます。

その後、山県率いる奇兵隊は北陸道鎮撫総督の指揮下に入り、北越戦争会津戦争を戦いました。1868年閏4月27日、奇兵隊も含む北陸道軍は桑名藩と交戦し、これに勝利します。

しかし、家老河合継之助率いる長岡藩軍との戦いでは桑名藩士立見尚文の奮戦もあって苦戦しました。北陸道軍が長岡城を攻め落とすことで戦局は奇兵隊を含む新政府軍に有利となります。

しかし、河合が長岡城を奇襲攻撃してきたときは、命からがら城外に離脱しました。それでも、なんとか長岡藩など越後諸藩を降伏させ、越後平定を果たします。

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