教養歴史

織田信長の息子って何してるの?波乱に満ちた子供たちの困難を解説

戦国の風雲児、第六天魔王。良くも悪くもいろんなイメージが付いている織田信長。 彼の新しい考えや戦法によって元々尾張の守護代であった織田家は中国地方から関東地方までを股にかけるほどの領地を築き上げました。 しかし、彼の息子たちが何をしたのかと聞かれるとその実態は謎に包まれているのが実情。 そこで今回はそんな信長の息子たちについて解説していきたいと思います。

そもそも織田信長はどんな人?

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織田信長は戦国時代中期から後期にかけて活躍した尾張出身の戦国大名です。

元々尾張一国をかろうじて支配していたのですが、1560年に桶狭間の戦いで勝利して以降急激にその支配権を広げていき、最盛期には700万石ともいわれる広大な土地を支配し、天下統一寸前まで上り詰めました。

しかし、1582年に家臣であった明智光秀によって本能寺にて自害。その後織田家は急激に衰退することになったのです。

信長の子供と本能寺の変の後の生涯

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簡単に信長について解説していきましたが、織田家は本能寺の変を境に一気に衰退していくことになります。

しかし、信長の子供たちは本能寺の変が起こり偉大な父が亡くなった後もしぶとく生き残りを図ろうとしていったのです。

次は信長の息子たちがどのような人生を歩んでいったのかについてみていきましょう。

【長男】名実ともに後継者〜織田信忠ー

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信長の長男であり、嫡男として生まれた織田信忠。彼は長男であったこともありかなり優遇された子供でもありました。

信忠は桶狭間の戦いの3年前である1557年に尾張で生まれました。幼名はかなり奇妙な顔をしていたため奇妙丸と名付けられたそうです。かなりアグレッシブな名前ですね。

信忠が元服すると信長の正統な後継者として1575年の長篠の戦いを戦い抜き、その後の武田方面の総大将として軍を任される存在となっていきます。

信忠もそれに応えて、武田軍を撃退し、堅城として知られていた岩村城を陥落させるなど活躍を見せていきました。

そして1576年には信長から織田家の当主の座と美濃国東部、尾張国北部の支配を任され岐阜城主として約80万石の大名となることに。

その後も当主として信貴山攻めや上月城攻めなど信長に代わる総大将として織田家における存在感を示していき、1580年には美濃・尾張の全てが与えられ支配圏は約110万石となりました。

甲州征伐と本能寺の変

こうして織田家の当主としてのスキルをどんどん築き上げていった信忠ですが、1582年の甲州征伐の時には再び総大将として武田家との戦を任されることになります。この時信長は49歳。この甲州征伐を持って信忠に完全に位を譲る表明もしようと考えていました。

信忠は信濃路から攻め始め、飯田城や高遠城と言った信濃南部の重要拠点を落とした後、雪崩を打って甲斐国に侵攻。

天目山にて武田勝頼・信勝親子を自害に追い込み武田家を滅亡させました。

こうして武田家を滅ぼした信忠は信長から甲斐国と信濃国の支配を任され、さらには信長から「天下の儀も御与奪」となくなったら信忠に全てを譲る表明までしたのです。

こうして織田家の後継者として名実と共に認められた信忠でしたが、甲州征伐から三ヶ月後に運命の日が訪れることになるのでした。

信忠は秀吉から備中高松城の援護として本能寺に宿泊していた信長に同行し、近くの妙覚寺に宿泊していましたが、6月2日の明け方未明突如として明智の軍勢が信長が宿泊していた本能寺に襲撃したのです。

信忠は光秀を迎え撃つために妙覚寺から脱出し、二条御所に移動。絶望的な状況ですが、籠城する構えを見せたのです。

しかし多勢に無勢。2万ともいわれる明智の軍勢には敵わず、二条御所にて討死。享年26歳でした。

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