最後の最後でミスを犯した信忠
本能寺の変によって信忠も討死しましたが、実は信忠は逃げようと思えばいつでも逃げられる状態にありました。
そもそも光秀は本能寺の変の計画は本当の側近にしか伝えておらず、一般の足軽が本能寺を襲撃することは最後の最後まで伝えられていませんでした。そのため信忠がいる妙覚寺まではあまり手を回すことができず、信忠は逃げられる可能性が非常に高かったのです。(その証拠として有楽斎は無事に逃げ延びている)
さらに、この時には信忠は名実ともに織田家の後継者であるため仮に信長が死んでも信忠が無事脱出して安土城に入ればその時点で形勢は逆転。織田家の天下は本能寺の変が起こっても揺るがないものになっていたと考えられています。
最後の最後で日本史を揺るがすミスを犯してしまった信忠。そして本能寺の変後の織田家はは後継者である秀吉によって翻弄されてしまうことになるのです。
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【次男】本当のバカ殿!?織田信雄
信長の次男であり、信忠亡き後では後継者となるはずである織田信雄。
しかし、この男はとんでもないほどのうつけ(バカ)であり、その性格から秀吉に翻弄される人生を送ることになりました。
信雄は1558年に尾張国にて生まれます。信忠とは一歳違いですが、次男は次男。長男以外はお荷物である戦国の世では次男以下は養子に出されることは常。信雄も伊勢の戦国大名であった北畠家の養子となり、北畠具豊として元服することになります。
その後は北畠家の当主として伊勢長島一向一揆や、長篠の戦いなどに転戦。着実に武功を挙げていった信雄ですが、1576年に三瀬の変を起こし北畠家を完全に乗っとると伊勢一国を治める大名となりました。
過ちばっかしの信雄の生涯
こうして北畠家を乗っ取った信雄は味をしめたのかどうかはわかりませんが、隣国の伊賀に信長の裁可なしに侵攻を開始。しかし、伊賀は忍者で有名であるためゲリラ戦に苦戦して最終的にはボロボロになって敗北してしまいました。
この第一次伊賀征伐によって信雄の武功は失墜しバカ殿のレッテルが貼られることになります。
さらには本能寺の変の戦後処理である清洲会議で本来では家督を継ぐはずの立場であるはずなのにもかかわらず甥の三法師にその座を取られ南伊勢・伊賀・尾張三国約100万石の後見人止まり。しかし、さすがに3歳に家督を譲るのはどうかしていると考えた秀吉によってなんだかんだで信雄に織田家の家督が巡ってくることになります。
その後は賤ヶ岳の戦いにて弟である信孝を撃破して、従来の領土に加えて北伊勢を獲得。こうしてなんとか織田家の面目が保たれたと思いきや、そういかないのが戦国の世の中。
徐々に関係が悪くなっていった秀吉と対決姿勢を見せていくようになり、秀吉と張り合えるであろう徳川家康と同盟を結び小牧長久手の戦いを引き起こすことになります。
しかし、秀吉が信雄の領土に侵攻したと知るとさっさと秀吉と和睦。秀吉の配下となったのでした。
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