流転する信雄とその後
こうして秀吉の配下となった信雄でしたか、小田原攻めの時に秀吉から三河・遠江への転封を断ったことがきっかけとなり改易。
信長の後継者となっていた信雄は一転浪人としての生活を送るようになりました。
その後1592年に1万石の大名に復帰すると95年には嫡男に越前大野5万石が与えられ名実と共に大名として復帰することになります。
しかし、関ヶ原の戦いでどっちつかずの対応をしたことが仇となり再び改易。
しかし、大坂の陣にて徳川と内通した働きが認められ最終的には大和国、上野国に合計5万石の土地が与えられることになりました。
700万石から見るとかなり見劣りする石高ですが、この二つの藩はすったもんだがありながらも天童藩、柏原藩として幕末まで生き残ることになります。
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【三男】貧乏くじを引くタイプ織田信孝
信長の三男であり、信長亡き後では信雄を補佐する立場となるはずである織田信孝。
しかし、この男は生まれた時から亡くなるまで貧乏くじを引くタイプの人であり、信雄と同じく秀吉に翻弄される人生を送ることになりました。
信孝は1558年に織田信長の三男としてで生まれました。実は三男となったのは少しわけがあって嫡男の母である生駒吉乃が織田信雄を出産する20日先に生まれていましたが、母の身分が低かったために三男とされたとされています。
そんな残念なスタートとなった信孝でしたが、信長からはかなり優遇されていた方で、信長が伊勢を獲得した後には伊勢の名門である神戸家に養子として出されることになりました。
地道な活動
神戸家を継いだ信孝でしたが1570年頃になると信孝は養父の具盛と不仲となり、養父を強制的に隠居させ北伊勢を支配。信孝は家臣の尽力もあり検地をやったり楽市楽座など父親が広めた制度を自国内でも採用したりと順調に伊勢を治めることができました。
このころから信孝の地位が上がっていき1581年の馬揃え(パレード)のときにはち織田家一門としては、信忠、信雄、信包(信長の弟)に継ぐ序列4位となっていました。
そして1582年には四国攻めの主将という大役に任じられ、ついに織田家の主力として活躍するはずと考えられていましたが、そのさなかにとんでもない事件に巻き込まれることになったのです。
秀吉に翻弄される後半生
四国攻めには織田家の有力家臣である丹羽長秀などが参加し、1万以上の軍勢が摂津・和泉に集結、準備が整い6月2日に渡海するはずだったのですが時同じくして京都にて本能寺の変が勃発。信長と信忠が討死し、堺にいた軍勢は大混乱。信孝も何もすることができず津田信澄など明智方につきそうな武将を暗殺することしかできないでいました。
そんな最中、中国地方から大軍を引き連れて羽柴秀吉が尼崎に着陣。信孝は摂津富田で合流し信孝を総大将として山崎の戦いが勃発し、明智光秀を打ち破ることに成功。これで一件落着に見えたのですがそこに待っていたのは非情な運命でした。
後継者を決める清洲会議では信孝が選ばれることはなく、美濃国は与えられたものの秀吉の力が徐々に強大なものになっていきます。
信孝と対立関係にあった秀吉は次男の信雄を織田家の当主として信孝と対立。信雄という大義名分を掲げていくことになります。信孝は仕方なく秀吉に降伏し和睦するのですが信孝からしたら我慢ならないものでした。