賤ヶ岳の戦いと信孝の死
1583年に信孝と仲が良かった柴田勝家が秀吉を討つために挙兵すると最後の賭けをするかのように秀吉に再び挙兵し岐阜城から出陣。しかし、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家が敗北すると大軍をもって岐阜城を包囲されることになります。
信孝は仕方なく再び降伏。しかし、秀吉によって欺かれ信雄の命令という形で切腹せよというのは命令が届きます。
もはや後がなくなった信孝は仕方なく切腹。その切腹の仕方も腹をかき切って腸をつかみ出し、床の間にかかっていた梅の掛け軸に臓物を投げつけたといわれています。
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信長の息子は戦国の荒波に飲まれていった
信長の息子は総じて本能寺の変ののちに秀吉によって家臣にされるかやられるかの二択となります。織田家はその後信雄の家系で江戸時代を生き抜くことになるのですが、信長の息子たちは運命に抗いながら戦国の時代を生き抜いていたのです。