平安時代日本の歴史

上皇による政治「院政」とは?わかりやすく解説!

平安時代中期。この時代には公家や皇族たちによる政治が行われていましたが、平安時代後期になると上皇によって政治が行われていくようになります。 今回はそんな上皇によって行われた院政について見ていきましょう。

院政とはどんな政治?

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院政とは、平安時代後期ごろから行われていた天皇に代わってその親であり、位を譲っていた上皇が政治を行う仕組みのことです。

ちなみに、院政を行っている上皇は天皇をしのぐ権力を持っており、治天の君とも呼ばれていました。

院政が行われるまでの道のり

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さて、院政によって上皇が力を持つようになっていきますが、次はどのようにして院政が行われていくようになっていったのかについて見ていきましょう。

後三条天皇の即位

院政が行われる少し前の平安時代中期。この頃は藤原家出身の娘を天皇に嫁がせてその間に生まれた息子を天皇にして自分はその父となり政治を行なっていく摂関政治が行われて藤原北家が天皇をしのぐ勢いの権力を保持していました。

しかし、そんな最盛期は続かないのが当たり前の世の中においてこの政治方式は藤原道長の息子である藤原頼通の頃に終わりを迎えることになります。

なんと頼通には娘が生まれず、その結果1068年に即位した後三条天皇が天皇に即位たのです。この結果天皇の母方の祖父(外戚)が権力の最大基盤であった藤原氏の勢力がここから落ち込んでいくようになります。

藤原氏の衰退と後三条天皇の退位

藤原氏の束縛から抜け出した後三条天皇が最初に行ったのが、徹底した藤原氏の排斥でした。後三条天皇は父やその祖先が藤原家に苦しめられた恨みとばかりにこれまで藤原氏が独占していた公卿の位に藤原家に変わって村上源氏をどんどんつけていくようになります。つまり藤原氏を牽制していったのです。

さらに後三条天皇は延久の荘園整理令を発令。この延久の荘園整理令によって不正に取得した荘園を没収するようになり、大量に寄進されていた藤原家の荘園を続々と没収していきました。その後1072年に後三条天皇は白河天皇に譲位してその翌年に崩御。時代は院政を始めて行うことになる白河天皇へとバトンタッチするのでした。

白河院政の始まり

白河天皇に譲位したあと、白河天皇は天皇として後三条天皇と同じく親政を行なっていくことになるのですが、14年後の1086年に堀河天皇に譲位。さっさと天皇をやめて上皇となったのです。これは朝廷内での後継問題をなくすためにスムースにやめたことが主な理由ですが、天皇をやめて上皇となった白河天皇は藤原師実という人を摂政として、摂関政治をおこなわせながら白河天皇も政治に介入。院政と摂関政治のハイブリッドみたいな政治体制となります。

しかし、やがて再び摂関政治の復活を望む藤原師実が堀河天皇をたてて白河上皇を排除しようとすると白河上皇と藤原師実が対立。藤原師実が亡くなったあとは白河上皇によって上皇の独裁化が進められていったのでした。

院政のしくみ

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こうして院政は行われていくようになりましたが、院政には天皇とは違う独自の財政や政治体制が敷かれていました。

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