奈良時代~都が平城京から平安京へ移るまでの84年間
今から1300年ほど前、現在の奈良県奈良市に、平城京と呼ばれる巨大な都市が誕生しました。この都を中心に、律令国家としての基礎が築かれ、天平文化と呼ばれる独特の文化が栄えた奈良時代。時代の分け方についてはいくつかの説がありますが、今回は、平城京が成立した710年から、長岡京を経て平安京に都が移っていった794年までの84年間を奈良時代と見て解説してまいります。前期のキーパーソンは聖武天皇、後期は桓武天皇がそれぞれ時代をけん引。どんな出来事があったのか、時代を象徴するいくつかのキーワードとともに追いかけてみましょう。
710年、藤原京から平城京へ遷都する
710年、元明天皇(げんめいてんのう)によって平城京への遷都が行われました。
平城京への遷都の理由は、はっきりとはわかっていません。
それまで、都は694年に築かれた藤原京(現在の奈良県橿原市周辺にあったとされる)というところにあり、天皇もそこに住んでいました。
せっかく作った都だったのに……16年足らずで引っ越すことに。元明天皇はその理由を明確に記してはいない(資料が残っていない)のですが、708年に「みんなが言うとおり、平城の地へ遷都すべきである」というような言葉を残しています。
理由としては、疫病が流行ったりしたのでもっと縁起の良い土地に移ろうということになったとか、人口が増えてきたためもっと利便性の良いところに移ることにしたとか……。あるいは、天皇のためのより理想的な都を形にしたかったから、とも言われています。
この頃、遣隋使や遣唐使の活躍もあって、中国大陸から、理想的な都の在り方やデザインについていろいろな情報が伝わってきていました。最先端の都・唐王朝の長安を模した、天皇中心の政治体制にふさわしい都を実現したかったのかもしれません。
遷都に際し、重要な役割を果たしたのは、あの大化の改新で活躍した中臣鎌足の次男である藤原不比等(ふじわらのふひと)でした。中臣鎌足は天智天皇(中大兄皇子)から藤原姓を賜り、藤原氏の地位を築いた人物です。
不比等は708年に右大臣となり、平城京の造営と朝廷の仕組みづくりに力を注ぎます。天皇と親戚関係を結ぶなどして、藤原氏の地位をゆるぎないものにしていきました。
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