- モンロー主義とはアメリカにとって何だったのか
- モンロー主義の背景にあったもの
- アメリカ独立戦争におけるフランスなどの支援
- ヨーロッパにおけるナポレオン戦争後への不介入とラテンアメリカの独立運動
- イギリスも市場としてラテンアメリカを狙っていた
- アメリカ合衆国の利害を織り込んだモンロー宣言だった
- もうひとつの警告を含んだモンロー宣言ーロシアの南下政策への警告
- モンロー主義はアメリカ大陸の縄張り宣言に他ならなかった
- モンロー主義の制約と変質_アメリカスペイン戦争
- ポーツマス講話会議の仲介もモンロー主義に反した行為だった
- その他のモンロー主義によるアメリカ外交への影響事例
- ウィルソン大統領の14ヵ条とその後の国際連盟不参加
- 実質的にモンロー主義が不可能になった第二次世界大戦後のアメリカ
- 冷戦前後におけるモンロー主義の終焉
- 再び新モンロー主義に帰ろうとするトランプ大統領
- 現代ではモンロー主義は不要だが、相手国を思いやる優しさが必要
この記事の目次
モンロー主義とはアメリカにとって何だったのか
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モンロー主義は、1823年に当時の第5代アメリカ合衆国大統領のジェームズ・モンロー氏が議会の年次教書で発表したものです。ヨーロッパ諸国に対するアメリカ大陸とヨーロッパ大陸との相互不干渉を表明し、宣言したものでした。モンロー主義の原案は、その当時のアメリカ合衆国国務長官であったジョン・クィンシー・アダムズ氏が起草したと言われており、それ以降の米国の外交方針を示していたのです。そのため、モンロー宣言とも言われています。その後、第一次世界大戦頃までは、アメリカ外交を縛る政治姿勢として重視されていました。
ただし、このモンロー主義は、単にアメリカ合衆国としてではなく、本来は南北アメリカ大陸としての発信となっていたのです。それは、当時、中南米(ラテンアメリカ)では、ヨーロッパの宗主国であるスペイン、ポルトガルからの独立運動が盛んになっており、それらに対する支援の意味もありました。
このようにアメリカ合衆国(米国)にとってのモンロー主義が宣言された背景、意味と、その後の米国のモンロー主義による外交の縛りがどのようにおこなわれかについて見てみます。また、そのモンロー主義がなぜ崩壊したのかについても見てみましょう。
モンロー主義の背景にあったもの
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1823年におこなわれたアメリカ合衆国のモンロー大統領のモンロー主義の宣言には、当時の米国とヨーロッパ諸国との複雑に入り組んだ関係が背景にありました。当時のヨーロッパは、アメリカ独立運動後に起こったフランス革命に引き続くナポレオン戦争がようやく終結しています。そのため、それまでの自由主義の要求や市民革命の流れに対してそれを阻止し、各国の国王を守ろうとする復古主義と言える保守主義が主流になっていたのです。
一方、アメリカ独立戦争やフランス革命で自由主義が標榜されたことから、スペインやポルトガルの植民地が多かった中南米(ラテンアメリカ)では、独立運動が盛んになりました。ナポレオン戦争で宗主国のスペイン、ポルトガルの力がなくなっていたこともその原因になっていたのです。
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アメリカ独立戦争におけるフランスなどの支援
もともと、北アメリカの13州はイギリスの植民地でしたが、イギリス本国が植民地の増税政策を推し進め、議会に議員を送ることを拒否されたことに植民地側は反発していました。そして、ボストン茶会事件に端を発した独立運動は、独立戦争に発展したのです。その際に、それまでイギリスと植民地争奪戦をおこなって負けることの多かったフランス、ドイツなどのヨーロッパ諸大国は植民地側を応援して武器などの支援をおこないました。
そのため、独立したアメリカ合衆国には、イギリスを除いたヨーロッパ諸国には負い目があったのです。しかも、アメリカ独立宣言に触発されてフランス革命も起こっていたので、その負い目は余計重くなっていました。
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ヨーロッパにおけるナポレオン戦争後への不介入とラテンアメリカの独立運動
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しかし、19世紀初頭のフランス革命後に現れたナポレオン皇帝は、その勢いでヨーロッパ各国を侵略し、各地の王国を倒していきました。そのナポレオン皇帝もワーテルローの戦いで負け、ようやくヨーロッパには静けさが戻ったのです。しかし、ナポレオン後のヨーロッパでは、オーストリア宰相のメッテルニヒを中心とするウィーン会議で、旧王国を復活させ、自由主義、市民運動を封じ込める政策がとられました。
これに反発したのは、スペインやポルトガルの植民地があったラテンアメリカでした。もともと、スペインやポルトガルは、ナポレオン戦争で力が弱まる傾向に拍車がかかり、植民地の支配力が低下していたのです。そこにフランス革命やアメリカ独立宣言における市民革命、自由主義に触発されて、次々に各植民地でナショナリズムや独立運動が盛んにおこなわれるようになっていました。
スペイン本国やポルトガル本国は、それらの動きを押さえようとして、ヨーロッパ諸国に助けを求め、メッテルニヒを中心とした各国は独立運動に介入しようとしていたのです。
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イギリスも市場としてラテンアメリカを狙っていた
さらに、アメリカ独立を許したイギリスは、表面的にはラテンアメリカの独立を支持しようとしていました。しかし、その背景には産業革命で大きく高まった生産力によって、その工業製品を売りさばく市場を求め、ラテンアメリカはそのよいターゲットになっていたのです。
このようなヨーロッパ諸国の動きを懸念していたのがアメリカ合衆国でした。米国も東部13州では生産力が高まり、その製品の市場開拓が必要になっていたのです。ラテンアメリカは米国にとって距離も近く、格好の市場であり、独立させて、彼らをよいお客にしたいと考えていました。