アメリカの歴史独立後

ヨーロッパとの相互不干渉を宣言した「モンロー主義」とは?わかりやすく解説

アメリカ合衆国の利害を織り込んだモンロー宣言だった

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このように、ヨーロッパの動きはアメリカ合衆国にとって憂慮すべきものになっており、いくら独立戦争で支援を受けたといっても見過ごすことはできませんでした。そこで、ヨーロッパ諸国の動きを牽制するためにおこなわれたのが、モンロー主義の宣言だったのです。すなわち、独立戦争で支援を受けたことからアメリカ合衆国は、ヨーロッパ大陸に対して介入することはしないとしました。その代わりに、ヨーロッパ諸国の南北アメリカ大陸に対する介入も禁止するという相互不干渉主義を宣言したのです。

これによって、ラテンアメリカには多くの独立国が生まれることになりました

すなわち、

「南北アメリカ大陸は今後ヨーロッパ諸国に植民地化されることはなく、それぞれの南北アメリカの国々は主権国家としてヨーロッパの干渉を受けるべきでない」

とし、各独立国に対する干渉も米国に対する敵対行為と見なすことにを宣言したのです。

さらにそれと引き換えにヨーロッパで起こる戦争や、ヨーロッパ諸国が南北アメリカ大陸以外で植民地争いを摩る場合には、米国は中立を保つことも同時に宣言しました。ヨーロッパ諸大国との利害関係を保つための苦肉の宣言だったのです。

もうひとつの警告を含んだモンロー宣言ーロシアの南下政策への警告

モンロー宣言がおこなわれた当時、現在米国領であるアラスカはロシアの領土でした。この当時からロシアの重点政策は南下政策であり、米国はロシアがアラスカから北米大陸を南下してくることを警戒していました。

そのため、モンロー主義の宣言にはロシアに対する警告の意味もあったのです。しかし、結果的にはロシアに北アメリカでの南下政策をおこなう余裕はなく、1867年にロシアはアラスカを720万ドル(現在価値1億2300万ドル)で米国に売却しています。

モンロー主義はアメリカ大陸の縄張り宣言に他ならなかった

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このようにアメリカ合衆国大統領のジェームズ・モンローのモンロー主義宣言は、米国のアメリカ大陸は俺たちのものだということを言い張った縄張り宣言だったと言えるのです。この宣言に沿って、米国は西部開拓に着手し、1830年には「インディアン移住法」を定め、国家として先住民掃討を進めます。その過程では、ジョン・フォード監督の西部劇映画などでもよく描かれている騎兵隊やアラモ砦などの事件も起こっているのです。

今から考えれば、西部劇映画などは白人の視点から描かれているケースが多いですが、先住民のインディアンを居住区を特定して閉じ込めたりするのは大きな過ちでした。オーストラリアなどは、アボリジニの居住地を返還したり、彼らの聖地であったウルル(エアーズロック)を観光禁止にしたりするなどをしています。しかし、米国は、インディアン移住法は廃止したものの、もとの居住地を返還するなどについてはおこなっていません。逆に、トランプ大統領はアメリカは自分たちのものだと移民を排斥しているのです。とても先進国とは言えない愚かな言動ですね。

モンロー主義の制約と変質_アメリカスペイン戦争

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このモンロー主義に綻びが出始めたのは、19世紀末の1999年に起こったアメリカとスペインの戦争(米西戦争)でした。この戦争に勝ったアメリカは、カリブ海諸島とフィルピンを自国の植民地としたのです。両方ともスペインの古くからの植民地で、本来アメリカはモンロー主義では手を出さない地域のはずでした。

それを破って自国の植民地とした戦争であり、相手がヨーロッパでも産業革命が遅れていたスペイン領に対して介入を図ったのです。カリブ海諸島はまだしも、フィルピンは全くアメリカ大陸とは関係のないアジアにあります。実際に、それより前におこなわれたフォークランド紛争では米国は中立を保ち、介入していません。

ポーツマス講話会議の仲介もモンロー主義に反した行為だった

日露戦争におけるセオドア・ルーズベルトによるポーツマス講話会議の仲介役なども、イギリスが日本の同盟国であった事情があるにせよ、本来は他大陸の他国への介入にあたります。しかし、当時のルーズベルト大統領は仲介役として日露戦争に干渉したのです。

この辺りから、米国のモンロー主義には放棄はしないものの、変質が見られるようになりました。

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