- プラザ合意とは何の合意?
- プラザ合意の日本への影響は大きかった
- バブルの発生と崩壊が起こった
- プラザ合意に至るまでの経緯
- 1970年代には米国の成長は止まり、アメリカンドリームは終わった
- 1970年代後半に日本の自動車が米国市場を席巻し、ビッグスリーは没落
- 1980年代の日本の自動車輸出に対する強い圧力
- 米国のカーター大統領による放漫財政による赤字の拡大によってインフレが発生
- インフレ対策として金利が急激に上昇、トリレンマに
- 為替市場では金利上昇によってドルを買う動きが出てドル高へ
- アメリカ経済はレーガノミックスで規制緩和も回復せず
- 東西冷戦による軍事費の拡大が負担に
- レーガン大統領のG5蔵相会議への要請
- 当時の先進5か国が要請を受けた理由
- プラザ合意によって急激にドル安が進む
- アメリカは1990年代になってようやく長期の経済低迷を脱した
- 日本の戦後の経済成長は終わった
- アメリカでさえ長期低迷を脱するのに20年かかった
- 人口減少局面では経済成長を求める必要はない
- プラザ合意がもたらしたもの
この記事の目次
プラザ合意とは何の合意?
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プラザ合意は、1985年9月22日、当時のG5蔵相・中央銀行総裁会議がニューヨーク市のプラザホテルで開催され、不安定な為替レートを安定させるための合意をしたことを言います。
当時のアメリカは、1980年代前半から続く極端なインフレとそれに伴う異常な金利上昇が生じていました。そこに景気対策による財政赤字と金利上昇によるドル高によって貿易収支が赤字になり、双子の赤字と言われたように、経済的に非常に苦しい状況に置かれていたのです。
当時のアメリカ合衆国(米国)のロナルド・レーガン大統領は、ベイカー財務長官に対して、G5の会議で国際為替市場におけるドル安を先進国に協調して容認させるように求めます。その結果、G5の共同声明の形でプラザ合意を発表しました。これによって、為替市場では急激なドル安が進み、日本を含む先進国はドル安に伴う輸出減少に対する景気対策が必要になったのです。
プラザ合意の日本への影響は大きかった
その中でも、米国に対する輸出が大きな経済効果を生んでいた日本は、国内需要、すなわち内需を拡大する必要に迫られました。日本銀行は、それまでにない強力な金融緩和政策を実施し、金融市場に大量の資金が流入したのです。しかし、輸出の低迷によって企業の設備投資は増加せず、余った資金は株式市場と不動産市場に流れ込んでいきました。
バブルの発生と崩壊が起こった
その結果、株式市場の株価は材料もないままに急上昇を示し、1989年の年末には3万9千円近くまで上昇したのです。一方、不動産市場でも、不動産の価格は急上昇を示し、その上昇は1992年まで及びました。両市場では極端なバブルが発生していたのです。
その後には、バブルは当然のように崩壊し、日本の戦後の経済成長神話は終焉を迎えました。その後の日本経済は長期的な低迷を続け、21世紀にはデフレ景気となり、それは現在も続いています。すでに経済規模は中国に抜かれて世界第3位になり、インドにも抜かれる可能性も高くなっているのです。
このように、プラザ合意に端を発した日本の経済は、ひとつの時代の終わりをもたらしました。このプラザ合意を詳しく見ていきましょう。
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プラザ合意に至るまでの経緯
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プラザ合意で米国の苦境が強調されましたが、それはこの1980年代半ばに急に現れた現象ではありませんでした。それ以前から、米国のアメリカンドリームと言われた好景気はすでに終わっていたのです。
1970年代には米国の成長は止まり、アメリカンドリームは終わった
アメリカ経済、すなわち、第二次世界大戦後のアメリカンドリームと言われた好景気は、1960年代末にはおかしくなり始めていました。そして、1971年のニクソンショックと言われる米国の金兌換停止によってアメリカの繁栄の時代は終わり、長期的な低迷時期に入っていたのです。
それは、それまで米国の好景気を背景とした欧米や日本に対する経済支援が限界に来ていたことを示すものでした。
1970年代後半に日本の自動車が米国市場を席巻し、ビッグスリーは没落
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アメリカンドリームを牽引してきた自動車のビッグスリーであるGM、フォード、クライスラーは、燃費の悪い大型車に依存していました。しかし、小型で燃費がよく、故障も少ない輸入日本車にシェアを奪われ、デトロイトなどの自動車産業の都市では失業者が溢れていたのです。そのため、1980年前後には、日本の輸入自動車に対する輸入規制への圧力が、企業、労組両方から強まっていました。
日本の経済の発展は、輸出面において、第二次世界大戦後にドル円が365円に固定されていたことが1つの大きな要因になっていたのです。ニクソンショック後に変動為替相場制に移行してからも、1970年代は1ドル=200円台で推移し、それ以上に下がらず、現実的なレートから乖離して推移していました。このことも、日米間の貿易摩擦が生じる要因になっていたのです。