アメリカの歴史独立後

日本経済の転換点となった「プラザ合意」とは?わかりやすく解説

プラザ合意は、1980年代中頃、米国経済が財政と貿易収支の双子の赤字によって苦しくなった時におこなわれた国際合意です。日本を含む先進諸国(当時のG5蔵相・中央銀行総裁会議)はプラザ合意でアメリカ救済のための不均衡是正に動き、ドル安を容認する合意を行いました。その結果、日本では金融緩和により超低金利時代に入り、余った資金が不動産市場、株式市場に流入し、空前のバブル経済を形成したのです。しかし、そのバブル景気は長続きせず、その後、日本はバブル崩壊とともに長期的な景気低迷時代に突入し、21世紀にはデフレ経済まで出現し、現在に至っています。 この日本経済の転換点をもたらしたプラザ合意とはどのようなものであったのかについて、解説しましょう。

プラザ合意とは何の合意?

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プラザ合意は、1985年9月22日、当時のG5蔵相・中央銀行総裁会議がニューヨーク市のプラザホテルで開催され、不安定な為替レートを安定させるための合意をしたことを言います。

当時のアメリカは、1980年代前半から続く極端なインフレとそれに伴う異常な金利上昇が生じていました。そこに景気対策による財政赤字と金利上昇によるドル高によって貿易収支が赤字になり、双子の赤字と言われたように、経済的に非常に苦しい状況に置かれていたのです。

当時のアメリカ合衆国(米国)のロナルド・レーガン大統領は、ベイカー財務長官に対して、G5の会議で国際為替市場におけるドル安を先進国に協調して容認させるように求めます。その結果、G5の共同声明の形でプラザ合意を発表しました。これによって、為替市場では急激なドル安が進み、日本を含む先進国はドル安に伴う輸出減少に対する景気対策が必要になったのです。

プラザ合意の日本への影響は大きかった

その中でも、米国に対する輸出が大きな経済効果を生んでいた日本は、国内需要、すなわち内需を拡大する必要に迫られました。日本銀行は、それまでにない強力な金融緩和政策を実施し、金融市場に大量の資金が流入したのです。しかし、輸出の低迷によって企業の設備投資は増加せず、余った資金は株式市場と不動産市場に流れ込んでいきました。

バブルの発生と崩壊が起こった

その結果、株式市場の株価は材料もないままに急上昇を示し、1989年の年末には3万9千円近くまで上昇したのです。一方、不動産市場でも、不動産の価格は急上昇を示し、その上昇は1992年まで及びました。両市場では極端なバブルが発生していたのです。

その後には、バブルは当然のように崩壊し、日本の戦後の経済成長神話は終焉を迎えました。その後の日本経済は長期的な低迷を続け、21世紀にはデフレ景気となり、それは現在も続いています。すでに経済規模は中国に抜かれて世界第3位になり、インドにも抜かれる可能性も高くなっているのです。

このように、プラザ合意に端を発した日本の経済は、ひとつの時代の終わりをもたらしました。このプラザ合意を詳しく見ていきましょう。

プラザ合意に至るまでの経緯

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プラザ合意で米国の苦境が強調されましたが、それはこの1980年代半ばに急に現れた現象ではありませんでした。それ以前から、米国のアメリカンドリームと言われた好景気はすでに終わっていたのです。

1970年代には米国の成長は止まり、アメリカンドリームは終わった

アメリカ経済、すなわち、第二次世界大戦後のアメリカンドリームと言われた好景気は、1960年代末にはおかしくなり始めていました。そして、1971年のニクソンショックと言われる米国の金兌換停止によってアメリカの繁栄の時代は終わり、長期的な低迷時期に入っていたのです。

それは、それまで米国の好景気を背景とした欧米や日本に対する経済支援が限界に来ていたことを示すものでした。

1970年代後半に日本の自動車が米国市場を席巻し、ビッグスリーは没落

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アメリカンドリームを牽引してきた自動車のビッグスリーであるGM、フォード、クライスラーは、燃費の悪い大型車に依存していました。しかし、小型で燃費がよく、故障も少ない輸入日本車にシェアを奪われ、デトロイトなどの自動車産業の都市では失業者が溢れていたのです。そのため、1980年前後には、日本の輸入自動車に対する輸入規制への圧力が、企業、労組両方から強まっていました

日本の経済の発展は、輸出面において、第二次世界大戦後にドル円が365円に固定されていたことが1つの大きな要因になっていたのです。ニクソンショック後に変動為替相場制に移行してからも、1970年代は1ドル=200円台で推移し、それ以上に下がらず、現実的なレートから乖離して推移していました。このことも、日米間の貿易摩擦が生じる要因になっていたのです。

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