アメリカの歴史独立後

「エジソン」は本当に偉い人?偉大な発明と挫折をわかりやすく解説

『エジソンは偉い人』そう聞くと『そんなの常識』と答えたくなると思いますが、歴史を学ぶのに大切なことは、どうしてエジソンという人が偉いのが常識となっていったのかの過程を見ていくこと。 そこで今回はエジソンの前半生と彼が生み出した発明品などを見ていき、彼が残した業績を考えていこうと思います。

エジソンの人物像

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後に世界的な発明を数々残すエジソンは1847年にアメリカのオハイオ州にて生まれます。エジソンはとても変わった人で知られており、何でもかんでも何故そうなのかを質問してきたためあだ名が『WHY』と呼ばれたほどの知りたがり屋さんだったそうです。しかし、この知りたがり屋がたたったのか学校に馴染むことができず、先生との対立によって3ヶ月にて退学。唯一の理解者である母の手で自宅学習を受けることになりました。

母はエジソンの気持ちがわかっており、エジソンの周りから友達がいなかった中、唯一そばで寄り添ってくれた人でもあり、母の優しさがのちの発明の原動力となっていったのです。

発明との出会い

こうして自宅で勉強をするようになったエジソン。彼は図書館や家で勉強をして色々な知識を吸収していきますが、その中で15歳の時に運命的な出会いをします。エジソンはこの当時駅舎にて働いていたのですが、その勤務中に駅長の息子が汽車にひかれそうになるトラブルが起こってしまいました。エジソンはその子供も決死の覚悟で救出。なんとか駅長の息子の命を救ったのでした。

その駅長はエジソンのことを息子の命の恩人として色々なことを教えます。その中に当時最先端の通信技術であった電信があったのです。

エジソンはこの電信の構造に興味津々。この電信に出会ってからエジソンは「こんな機械を作ってみたい」と志すようになり、発明家としての道を歩んでいくことになるのでした。

最初の偉大な発明

こうして発明家を志し始めたエジソン。エジソンは母や図書館にて読んだ本の知識をフル活用して17歳の時にサボりたいがために『一時間に一回勤務で送らなければいけない信号を自動で送る機械』を発明。しかし、これは仕事をサボりたかっただけの機械だったため、上司に怒られてしまいました。しかし、これがエジソンが初めて作った発明だったのです。

さらにエジソンは発明で一山当てようと21歳の時に電気投票記録機を発明。これは今のようにボタンを押して議会の可決や否決を決めるという当時としては画期的な発明でしたが、議会における様々な活動ができなくなるという理由でこの発明は失敗作に。エジソンはここから人が喜ぶ発明ではなければならないということを学びました。

そしてその翌年になるとエジソンは株式相場の表示機を発明。この発明は大当たりだった模様でエジソンはこの発明によって4万ドル(今の価値にして2億円)という莫大な金を手に入れ一躍有名人となったのです。

エジソンのすごい発明シリーズ

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エジソンはこのようにして発明家となっていきましたが、その発明の量は数知れず。特許の数はなんと1300以上もあるんですよ!

そこで今回はそんなエジソンの発明の中でも特に有名であり、後の世に大きく影響を与えた5つの発明について見ていきましょう!

白熱電球の実用化

エジソンの発明の中でも特に有名なのが白熱電球でした。今ではLEDライトが主流となり白熱電球はあまり使われなくなりましたが、これまで石油ランプしか明かりがなかったアメリカにおいてこの白熱電球の登場は「世界から夜が消えた」と呼ばれるぐらいの代物だったのです。

しかし、エジソンは白熱電球の発明はしておりません。実は白熱電球は少し前にイギリスの科学者ジョセフ・スワンという人が発明したものであり、エジソンはあくまでもその白熱電球を民間の手元におけるように実用化しただけでした。

しかし、エジソンはジョセフ・スワンの白熱電球の最大の弱点だったフィラメントの耐熱性を強化することに成功し、最高300時間使えるという当時としてはあり得ない耐久性の向上を成し遂げたのです。

コラム【エジソンの発明に日本あり】

エジソンはフィラメントの耐熱性を強化すれば白熱電球の長寿化を達成できるとし、世界中から耐熱性のありそうなものをかき集めましたが、なかなかそんなものは見つかりません。

しかし、日本にある八幡の竹を炭化させたものを使うとあら不思議!どんな電流を流しても燃え尽きることはなく300時間も耐えたではありませんか!こうしてエジソンは白熱電球のフィラメントに八幡の竹を採用。白熱電球の実用化に大きく貢献しました。

エジソンの発明の中に日本の物が入っているとなんか誇らしく感じますね。

ちなみに、今では今見つかっている元素の中で一番融点が高いタングステンを使用しています。

蓄音機の発明

エジソンが電球の次にこだわったもの。それは自分の声が記録に残る機械の発明でした。その理念にかられたエジソンは新しく自分の声をすぐに記録する機械を発明していくことになります。そして1877年、エジソンは円筒型の蓄音機である『フェノグラフ』を発明したのでした。

この音を記録する機械は世界で大きな評判を呼び、エジソンの邸宅に押し寄せて蓄音機を見に来る人が多かったそうです。

しかし、この当時の蓄音機は肝心の音質はあまり良くなく、あくまで蓄音機を発明した止まり、蓄音機が実用化したのはグラハム・ベルのチームの一員であるベルリナーという人が今と同じ形式である円盤型の蓄音機を発明してから。このことによって世界における音楽が一般的なものになったのでした。

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