アメリカの歴史植民地時代

アメリカ独立戦争のきっかけになった「ボストン茶会事件」とは?詳しく解説

アメリカ合衆国の独立宣言は1776年ですが、その10年以上前からイギリスからの独立を求める運動が起こり、その後の独立戦争の最中に独立宣言がおこなわれたのです。独立戦争の1つのきっかけになったのがボストン茶会事件でした。北アメリカのイギリス領における独立運動はなぜ起こったのか、ボストン茶会事件では何が起こったのかについて詳しく解説します。

ボストン茶会事件とアメリカ独立戦争の関係

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ボストン茶会事件は、1773年に現在のアメリカ合衆国のボストンの港湾で起こった急進派が入港していた輸送船に浸入し、茶箱を海に投棄した事件のことです。この事件は、北アメリカの植民地での暴動につながり、イギリス軍を投入して武力制圧をしようとしたことから、アメリカ独立戦争が引き起こされたと言われています。この事件は、世界史などの歴史教科書などにはたいてい出てくるため、聞いた記憶のある人も多いと思いでしょう。

ボストン茶会事件は、当時のイギリスの植民地拡大策が影響しており、植民地拡大のための費用は植民地全体で持たせようというイギリス本国の意向への反発が招いたものでした。

このイギリスと当時の北アメリカの植民地の関係、アメリカ独立への過程を中心に見ていきましょう。

北アメリカのイギリス植民地_13の植民地

イギリスの北アメリカ(北米)植民地は、17世紀の清教徒(ピューリタン)がイギリス国教会からの迫害によってメイフラワー号でアメリカに移民してから始まりました。北アメリカのミシシッピー川以東には多くのイギリス植民地が形成され、ボストン茶会事件当時の18世紀中盤には独立した13の植民地があったのです。当初はそれぞれが独立していました。しかし、イギリス本国が北アメリカの植民地に対する税法などの諸法の締め付けをおこなったことにより、反発した13植民地の人々は互いに結び付きを強めて抵抗します。13植民地が共同してイギリス本国との交渉にあたるようになっていました。

当初はイギリスとアメリカ植民地の関係は良好だった

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アメリカのイギリス植民地は、イギリスの清教徒(ピューリタン)の信者たちがメイフラワー号に乗ってアメリカ大陸に移民したことから始まりました。彼らは必死に植民地を拡大し、事件当時にはミシシッピー川以東に13の植民地に発展していたのです。これらがアメリカ合衆国の独立当初の13州になることになりました。

この北アメリカの植民地からは、小麦などの農作物をはじめとしてさまざまなものがイギリスに輸出されます。一方、イギリス本国は、国内の産業革命にともなう生産力を生かすための原料を確保でき、また、北アメリカの植民地はその製品を販売できるお得意先になっていました。植民地は輸出の対価で潤い、植民地とは言え、さまざまな製品を輸入することで豊かな生活を送っていたのです。すなわち、両者の関係は良好に推移していました。

イギリス人は紅茶がお好き

当時のイギリスは、インドからフランスを追い出して完全に植民地化し、東インド会社がそこを拠点として中国との交易などで巨額の利益をあげていました。そのインドの南部やセイロン(現スリランカ)で生産される紅茶がイギリスでは人気になり、とくに上流階級ではブームになっていたのです。そのため、北アメリカの植民地でも、紅茶の愛飲が広がっており、東インド会社の輸送船は紅茶の茶箱を積んで北アメリカの植民地によく入港するようになっていました。

今では、アメリカではアメリカンと言われるようにコーヒーがよく飲まれますが、当時は紅茶がよく飲まれていたのですね。

ボストン茶会事件が起こった背景

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ボストン茶会事件は、イギリスの茶法という植民地への紅茶輸出に対して税金をかけようと議会で可決されたことが発端となりました。当時のイギリス議会には北アメリカの植民地の代表は代表を送れず、その中で不公平な茶法が議会で成立したのです。北アメリカの植民地の人々は誰もが不公平だと思ったことがきっかけでした。

イギリスの七年戦争への参戦とその戦費負担を植民地に押し付け

しかし、それ以前からイギリス政府と議会では、植民地戦争で膨らんだ戦費が財政を圧迫していたために、それを植民地に負担させようという考え方が出ていました。当時のイギリスは、フランスなどと、インド、北アメリカ、東南アジアなどで植民地の拡大で互いに対立していたのです。

そのような中で、イギリスは、オーストリアのハプスブルグ家の後継問題にからんで起きたプロイセン(今のドイツ)とフランス・オーストリアの七年戦争に巻き込まれてしまいます。イギリスは、プロイセン側に立って参戦することになり、フランスのインドや北アメリカ(現在のカナダ)植民地に対して攻撃をおこない、戦闘が起こりました。さらに、ヨーロッパ大陸内の戦争には参加しないものの、プロイセンに対して巨額の支援を約束して、イギリスの財政は非常に苦しくなってしまったのです。

そのため、1764年に砂糖法、1765年には印紙法を改正して植民地負担(イギリス本国の税収)を拡大して、北アメリカをはじめとした植民地はその政策に反発を強めていました。

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