フランスヨーロッパの歴史

ヨーロッパを巻き込んだ大戦争「ナポレオン戦争」をわかりやすく解説!

今でもフランスの英雄であり、日本でも大変人気のある人物であるナポレオン。 ナポレオンによってフランスは強大な国家となっていきましたが、最終的にはセントヘレナ島に流されてしまいその地にて生涯を終えることになりましたが、果たしてナポレオンはどのようにしてフランスを強大な国家にしていったのでしょうか? 今回はそんなナポレオンが行なっていったナポレオン戦争について見ていきたいと思います。

ナポレオン戦争が起こった背景

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ナポレオンが政権を握るか少し前フランスではフランス革命が起こったことによって王政が打倒され共和制が樹立するようになりました。

しかし、王政が倒れたことに危機感を持ったのがフランス以外のヨーロッパの王国。自分の国もフランスみたいになったらもちろん困りますので、ほとんどのヨーロッパの国々がフランスに宣戦布告。第一次対仏大同盟が結成されました。普通に考えたらフランスの圧倒的不利な状態だったのですが、こんな最中フランスにとんでもない英雄が現れるのです。

ナポレオン戦争第1章【ナポレオンの台頭】

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ナポレオンが最初に活躍したのが北イタリアにおける戦争でした。ナポレオンはこのイタリア戦争に大活躍してのちの権力奪取の基盤となっていきましたが、まずはナポレオンの最初の戦争についてみていきましょう。

第一次イタリア戦争

1792年始まったイタリア戦争から四年。フランスは当時オーストリアに支配されていた北イタリアを占領する作戦に打って出ます。この時のイタリア方面総司令官となったのがナポレオン。ナポレオンはまずミラノとサルデーニャ島を治めていたサルデーニャ王国を降伏に追いやり、さらには北イタリアの重要拠点を次々と陥落。最終的にはオーストリアとフランスの間でカンポ・フォルミオの和約が結ばれてフランスな南ネーデルラント(ベルギー)を獲得。オーストリアが脱落したことによって第一次対仏大同盟は崩壊することになります。

エジプト遠征

フランスは陸戦においてはこの頃最強と言っても過言ではありませんでしたが、海軍の方はというとからっきし。そこでナポレオンはイギリスの生命線であったインドと本国イギリスを結んでいるエジプトを占領してイギリスに打撃を与えようとします。

1798年5月19日、ナポレオンの率いるエジプト遠征軍は途中マルタ島を占領。さらにピラミッドの戦いで現地軍に勝利。この戦争でエジプトを手に入れたと思われたのですが、ナイルの海戦でネルソン率いるイギリス艦隊にフランス艦隊は大敗。ナポレオンはエジプト遠征に失敗することになります。

【 ナポレオン戦争第2章】第二次対仏大同盟とナポレオンの皇帝就任

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こうしてエジプト遠征は失敗に終わりましたが、ナポレオンの勢いは止まりません。ナポレオンは総裁政府を打倒して自分がフランスの支配者となります。その直前にイギリスはフランスを打倒するために再び対仏大同盟を結成。

しかし、ナポレオンの反応は早く再びオーストリアを撃破してオーストリアを撃破するとイギリスとアミアンの条約を結んで講和することに。この講和は結局フランスとイギリスの産業における対立で一年で崩壊することになるのですが、ナポレオンはイギリスと講和したことによってフランス国民からの支持は急上昇。

最終的には1804年に自分自ら皇帝に即位してフランス第一帝政がスタートすることになったのです。

中央ヨーロッパの戦役

アミアンの和約を結んだイギリスはしばらく黙っていましたが、1805年にナポレオンはイギリス上陸計画を立案。これに危機感を抱いたイギリスは第三次対仏大同盟を結成し、フランスに対抗していきます。

これを受けてナポレオンは中央ヨーロッパの制圧を決定。23万の大軍を率いてオーストリア領土に侵入し、ウルム戦役にてオーストリア軍を完膚なきまでに叩きオーストリアの首都であるウイーンに入城。オーストリアはロシア軍と合流し粘り強く戦いますが、アウステルリッツの戦いによってのちの戦術家から芸術的と言われる采配をふるい完勝しました。

これによってオーストリアはプレスブルク条約を締結しナポレオンに下ることを決定。神聖ローマ帝国の皇帝でありオーストリア皇帝であったフランツ2世は神聖ローマ帝国皇帝の座から退位し、700年にわたって存在した神聖ローマ帝国は滅亡することになります。

しかし、海戦の方ではうまくいかずイギリスのネルソン提督によってトラファルガーの海戦で敗北。イギリスに上陸することはかないませんでした。

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