アメリカの歴史独立後

世界で初めて有人動力飛行を成功させた「ライト兄弟」その軌跡をわかりやすく解説

「ライト兄弟は実は五人きょうだい」歴史の面白トリビアとして聞いたことがある方も多いと思います。「兄弟」と呼ばれているところから、兄と弟二人兄弟なのかと勝手に思い込んでしまいがちですが……。五人のうち、飛行機の研究開発を行っていた三男と四男のことを特別に「ライト兄弟」と称しています。世界で始めて有人飛行を成功させたと称されるこの二人、しかし彼らが活躍した20世紀初頭は、多くの人が有人飛行を目指してしのぎを削る時代でもありました。今回はそんな時代を生きた彼らに注目。ライト兄弟がいかにして有人飛行を成功させたか、軌跡をたどってみたいと思います。

ライト兄弟:生家と生い立ち

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一般に「ライト兄弟(Wright Brothers)」といえば、有人飛行可能な動力飛行機を開発した人物のことであり、兄ウィルバー・ライトと、弟オーヴィル・ライトのことを指します。自動車や蒸気機関車、蒸気船など新しい動力を搭載した乗り物が次々と実用化され始めた19世紀末、彼らはこの世に生を受け、成長していきました。まずはそんなライト兄弟の生い立ちから追いかけてみましょう。

ライト兄弟とは?兄:ウィルバーと弟:オーヴィル

兄のウィルバー・ライトは1867年、アメリカのインディアナ州にあるミルビルという町で生まれました。

ウィルバーより上に、ルークリン、ローリンという二人の兄がいて、ウィルバーは三男として誕生します。

父親の職業は牧師。ウィルバーが生まれてまもなく、オハイオ州のデイトンへ引っ越します。この町で1871年に生まれたのが四男のオーヴィルです。

オーヴィルの後に、末の妹のキャサリンがいます。

両親ともに教養が高く、穏やかな人柄。酒もたばこもやらず、常に人のために尽くす慈悲深い両親に愛されながらすくすくと成長。決して裕福ではありませんでしたが、ライト家の子供たちはたくさんの本を読み、心豊かに成長していったようです。

1888年に母が他界。

二人の兄と妹は大学へ進学し家を出ますが、ウィルバーとオーヴィルはデイトンに残り、地方新聞の編集・発行などを行って過ごしていました。

自転車屋を営みながら様々な開発を

1890年代に入ると、アメリカでは若者たちの間で自転車が大流行となります。

乗りやすくて壊れにくい、新しいタイプの自転車がヨーロッパで作られるようになり、それが海を越えてアメリカへ次々と入ってきたのです。

ウィルバーとオーヴィルは、地元デイトンで自転車屋を始めます。

二人とも子供のころから大工仕事などをこなしていたため、手先は器用。販売だけでなく自転車の修理なども請け負い、店は大変繁盛したのだそうです。

さらに二人は、オリジナルの自転車を作り始めます。彼らが作る自転車は評判がよく、店はさらに繁盛しました。

ウィルバーとオーヴィルはお互い助け合いながら、二人で自転車屋を切り盛りしていきます。また、自転車以外の分野にも目を向けて、時間を見つけては工場にある部品や機械を使って様々な発明や制作に没頭していました。

兄は無口で気難しい学者タイプ。弟は社交的で実用的な開発を好み、性格は間逆だったと伝わっています。違う性格だったからこそ、うまく補い合って支えあうことができたのかもしれません。

ライト兄弟は生涯独身を通し、有人飛行可能な飛行機の開発に人生を捧げていくことになります。

ライト兄弟が誕生した19世紀末の時代背景

ライト兄弟が自転車屋を営んでいた19世紀末とは、いったいどのような時代だったのでしょう。

それまで馬や牛に貨車を引かせていた時代から、蒸気という新しい動力の誕生により、物流・輸送業界に大きな革命が起きていました。

蒸気機関車をはじめ、蒸気を動力として動く蒸気自動車、帆船の代わりに蒸気の力で水路を進む蒸気船など、移動手段の確立で時代は大きく変わろうとしていたのです。

さらに、フランスではモンゴルフィエ兄弟が熱気球による有人飛行を成功させ、空にも目が向けられるようになっていました。

しかし、まだ、どうやったら宙に浮き移動することができるか、その原理や方法については模索が続いている段階。誰がいち早く飛行する乗り物を開発するか、手探りが続く時代でもありました。

そんな中、ドイツ人技師オットー・リリエンタールがハンググライダーを使った飛行実験を行い、有人飛行の可能性に一筋の光が当たります。彼が積み上げた膨大な量の実験データは、ライト兄弟にも大きな影響を与えました。

しかし肝心のリリエンタールは1896年、グライダーの墜落事故により亡くなってしまいます。リリエンタールの事故はまもなくしてライト兄弟の耳にも入り、彼らに強い衝撃を与えることに。そして兄弟はリリエンタールの後を継いで動力飛行機を完成させようと、思いを新たにすることになるのです。

ライト兄弟:有人飛行への軌跡

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19世紀末から20世紀初頭にかけて、有人飛行可能な機体を開発すべく奮闘したライト兄弟。三男・ウィルバーと四男・オーヴィルはお互いに支えあいながら、前人未到の偉業へと突き進んでいきます。彼らはどのようにして有人飛行を成功させたのでしょう。発明までの軌跡について解説します。

空気より重い機体での動力飛行は可能?

1896年のリリエンタールの死後、ライト兄弟は自転車工場の合間に飛行機の研究に着手し始めました。

工場で様々な部品の実験や研究を行う傍ら、膨大な量の資料を取寄せ熟読。特にワシントンのスミソニアン協会から提示された冊子は有益なものでした。

この時、スミソニアン協会の会長をしていたのが、物理や天文学などに精通し第一線で活躍する科学者・サミュエル・ラングレーです。ラングレーもまた、ライト兄弟と同じように飛行機の開発に着手していました。

ライト兄弟は飛行機に関する情報がほしいと、スミソニアン協会に問合せをします。ラングレー会長はライト兄弟からの問合せに対し丁寧に対応。飛行機に関する冊子や資料をいろいろ揃えて兄弟に送ったのだそうです。

様々な情報を読み解きながら、ライト兄弟は機体の研究を重ね、何度も何度もグライダーを飛ばして実験を繰り返します。機体の改良を行うとともに、作成した機体を彼ら自身が操縦。パイロットとしての技術も向上させていきます。

1903年に有人飛行を成功させたライト兄弟

1903年12月17日、場所はノースカロライナ州のキルデビルヒルズ。ライト兄弟は自身が開発した動力付き飛行機「ライトフライヤー号」による有人飛行を成功させます。

飛行に最適な風が吹く地域を探し、12馬力のエンジンが付いた飛行機でテイクオフ。

操縦者は弟のオーヴィルでした。

このとき、兄弟は合計4回、飛行を行っています。1回目の飛行時間は12秒間で、飛行距離は約37メートル。回を重ねるごとに飛行距離が伸びて4回目は250メートル以上も飛んだと記録されています。

ただ、科学者でも実業家でもない、自転車屋の兄弟の偉業を、当時の人々は簡単には受け入れなかったようです。彼らの成功は、栄誉でもあり、争いの火種にもなりました。

グレン・カーチスやチャールズ・ウォルコットなど、同時期に飛行機の開発を行っていたライバルたちとの間で特許争いが勃発。いずれも技術界では名の知れた人物ばかりでしたので、単なる民間人にすぎないライト兄弟を敵視し、特許を争って裁判にまで発展したこともあったのです。

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