明治時代の北海道開拓
戊辰戦争に勝利した明治政府は、北海道の開拓を行うため開拓使を設置します。開拓使は設置当初は函館に、その後、北海道の中央部に近い札幌に置かれました。開拓使は碁盤の目のような計画都市として札幌を建設します。1874年、政府は北方の脅威であるロシアに対抗するため、全道各地に屯田兵を設置しました。また、戊辰戦争後に財政難などで苦しんでいた東北諸藩や北陸地方の人々が多数、北海道に移住し開拓に従事します。
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開拓使の設置
1869年、政府は北海道開拓を目的とする開拓使を函館に設置します。開拓使の初代長官は佐賀藩主鍋島直正でした。鍋島の下、北海道開拓にあたったのが島義勇でした。島は開拓使の場所が函館では北海道の南に偏りすぎていると考え、北海道の中央部に近い現在の札幌付近に開拓使を置くべきだと考えます。
島は札幌を京都のような碁盤の目状の計画都市として整備しました。島は任期途中で解任されますが、あとを継いだ岩村通俊が札幌建設を続行。1871年に開拓使を札幌に移しました。
1874年、黒田清隆が開拓長官に就任すると、産業の育成がはかられます。札幌農学校の設立やサッポロビールのルーツにあたる札幌麦酒醸造所などが作られたのは黒田長官時代でした。
1881年、黒田清隆は同郷の政商五代友厚に開拓使の事業を格安で払い下げたとして世論の批判を浴び開拓長官を辞任。1882年に開拓使は廃止され、函館県、札幌県、根室県に分割。1886年に北海道庁が新設され、3県は統合されました。
屯田兵の設置
江戸時代後期から、日本にとってロシアは脅威と考えられてきました。「赤蝦夷」と称されたロシア帝国は、冬でも凍らない港(不凍港)を求めて領土を南に拡大していたからです。ところが、明治政府は発足間もなかったため北海道を防備する十分な兵力を配置することができません。そこで、平和なときは北海道を開拓する農民・漁民として、国境防備の必要が発生した武器を手に取って集まるという屯田兵の制度を北海道で実施しました。
屯田兵の一部は1877年の西南戦争にも従軍。軍事力として活用できることを証明します。明治中期になると屯田兵は規模を拡大。ロシアに対抗する軍事力として期待されます。
明治時代の後半になると、北海道開拓が進み屯田兵に与えられる土地が少なくなりました。そのため、1899年に新規の屯田兵は停止。1904年に廃止となりました。
屯田兵が北海道に与えた影響は小さなものではなく、現在でも全道各地に屯田兵に由来する地名が残っています。
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北海道開拓のための移民
北海道の開拓に従事したのは屯田兵だけではありませんでした。北海道に移民した人々の多くは東北地方の出身者です。東北地方は戊辰戦争の戦場となり、多くの藩が新政府に敗北。人々は戦争の痛手や領地没収に苦しんでいました。そのため、あらたな可能性を求めて北海道に移民する者も多かったのです。
特に、仙台藩の一門である亘理藩主伊達邦成は、明治政府の許可を得て有珠郡で開拓を実施。西洋式の農業を導入し苦難の末、小豆やてんさいの栽培に成功し、現在の伊達市周辺に定着します。
また、北海道は江戸時代から日本海海運との結びつきが強い地域でした。そのため、新潟県や富山県、石川県などの北陸地方からも多くの人々が北海道に移民します。
札幌農学校の開校とクラーク博士の招聘
1874年に開拓長官となった薩摩藩出身の黒田清隆は、藩閥出身のメリットを生かし北海道開発に大きな予算を投入します。黒田はお雇い外国人の力も活用して北海道開拓に臨みました。北海道開拓のためにつくられた札幌農学校の教頭として招かれたクラークもお雇い外国人の一人。彼は札幌農学校を中心に独自の教育を行い生徒たちと交流を深めました。札幌農学校とクラーク博士についてまとめます。
明治初期に政府が雇ったお雇い外国人
幕末から明治時代のはじめにかけて、江戸幕府や明治政府は「お雇い外国人」とよばれる人々を高給で雇用しました。政府が彼らを雇った理由は、彼らの持つ知識や経験、技術を生かして、日本の産業を起こす殖産興業や経済力を強めて軍事力を強化する富国強兵を行うためでした。
幕末から勧められたお雇い外国人の雇用は明治政府にも引き継がれます。明治政府が設置した工部省では、鉄道・造船・鉱山・製鉄・電信など様々な近代化事業を管轄し、殖産興業を進めようとしました。そのために、外国人技術者は必要不可欠だったのです。
とはいえ、彼らに払う高給は驚くべきものでした。例えば、オランダ人のフルベッキの月給は600円。これは、右大臣岩倉具視の月給と同額でした。もっとも高額な月報をもらった造幣寮支配人、ウィリアム・キンダーの場合は1045円。現在の首相にあたる太政大臣三条実美の800円をも超える金額でした。
彼らの力を十分に吸収した日本は、世界でもまれな急速な変化を遂げます。