- フランス革命はなぜ起きた?ブルボン朝の絶対君主制とは
- 財政逼迫!平民たちに働かせて贅沢三昧のフランス貴族
- 市民激怒!いつまでもおとなしくしていると思うなよ!
- 平民も貴族も同じ場に・三部会の招集とバスティーユ襲撃
- ブルボン朝は倒したけどその後は?フランス革命の行く末
- 国民を見捨てて国外逃亡だなんて!ヴァレンヌ事件
- 変革はつらいよ~混乱するフランス共和政治と革命戦争
- 共和制の成立とマリー・アントワネットの処刑
- フランス革命のその後~共和政治の先に見えたものとは
- ジャコバン派独裁政治の失墜とナポレオンの登場
- そして現代へ:フランス革命ゆかりの地を巡る
- 自由・平等・博愛~激動のフランス革命がもたらしたものとは
この記事の目次
フランス革命はなぜ起きた?ブルボン朝の絶対君主制とは
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「パンがなければお菓子を食べればよいではないか」と、フランス王妃マリーアントワネットが言ったとか言わなかったとか……。この言葉に象徴されるように、当時のフランスの貴族と平民の暮らしには大きな隔たりがあり、この格差がフランス革命の原因になったとも言われています。フランス革命はいかにして起きたのか、革命前後の様子をたどってみましょう。
財政逼迫!平民たちに働かせて贅沢三昧のフランス貴族
18世紀のフランスは、ブルボン朝と呼ばれる王朝によって統治されていました。
聖職者>貴族>平民というピラミッド状の身分制度が厳しく決められており、その身分の格差は想像を絶するものだったと伝わっています。平民たちには重い税がかけられ、貧しさに耐えながら、聖職者や貴族たちのぜいたくな暮らしのために働き続けなければならなかったのです。
一方で、フランス国家は莫大な財政赤字を抱えていました。
大きな権力を持ち「太陽王」と呼ばれたルイ14世の時代から、隣国との戦争のための軍事費がかさみ、さらにベルサイユ宮殿など贅沢な建造物のための費用が重なって、平民からどれだけ税金を搾り取っても足りない状況。足りないとすぐ税金を上げる……といったことを繰り返していました。
ルイ15世の時代になっても浪費は止まらず、経済は完全に破綻。それでも王室や貴族たちのぜいたくは止まりませんでした。
そしてルイ16世の統治時代へ。王妃はあのマリー・アントワネット。ベルサイユ宮殿では夜ごと贅沢な宴が催される中、平民たちの怒りは限界に達しようとしていました。
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市民激怒!いつまでもおとなしくしていると思うなよ!
ルイ16世はあまり頼りになる王様ではなかったとも伝わっています。一応、経済の立て直しを図ろうと、新しく財務長官を任命したりしていましたが、財政改革はうまくいきませんでした。
もうこれ以上、平民たちの税金を上げるわけにはいかないところまで来ていたのですが、聖職者と貴族からも少し徴収しようとしたところ猛反発をくらい、組織改革や人員削減もうまくいかず、身動きが取れないところまで来てしまっていました。
大赤字を解消しなければ国全体が傾くことは明白です。赤字脱却のためには、貴族たちから税を徴収するなど改革は必至。しかし、一度甘い汁を吸ってしまった特権階級の連中が首を縦に振るわけはありません。
同じころ、遠く海の向こうで、時代が大きく変わろうとしていました。1775年に始まったアメリカ独立戦争。1783年にアメリカ合衆国の独立が承認され、アメリカはイギリス(グレートブリテン)からの独立を果たしました。
直接の要因でないにしろ、アメリカの独立という出来事が、悪政に苦しむフランス国民に刺激を与えた可能性はあったでしょう。
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平民も貴族も同じ場に・三部会の招集とバスティーユ襲撃
貴族たちからも税金を徴収する以外、現状突破の道はありません。財務長官を一度解任されたネッケルは、三部会(聖職者、貴族、平民から構成される議会)の招集を呼びかけます。反発する貴族たちは平民から選出された議員たちを会場から締め出そうとしますが、締め出された平民議員たちはベルサイユ宮殿の外にあるテニスコートで国民議会の発足を宣言。一度立ち上がった平民たちの勢いは止まりません。
平民議員の勢いと反発する貴族たちの板挟みになりながら、いまひとつパリッとしないルイ16世。国民議会を承認しながらも貴族たちの言いなりにネッケルを罷免したため、これがパリ民衆の怒りに火をつけてしまいます。
1789年7月14日、怒りに燃える民衆は、当時火薬庫として使われていたバスティーユ牢獄を襲撃。これを皮切りに、フランスの各地で暴動が起きます。民衆はベルサイユ宮殿にも乱入し、ルイ16世一家はテュイルリー宮殿に移されることになるのです。
同年8月4日、国民議会は貴族たちの特権廃止を決定。アメリカ独立宣言を参考に、「原則として人はみな平等である」と宣言。世にいうフランス人権宣言です。
この後、革命はさらに急速に進んでいきます。
ブルボン朝は倒したけどその後は?フランス革命の行く末
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バスティーユ牢獄の襲撃こそがフランス革命であると勘違いしがちですが、これはまだまだ序章にすぎません。革命はこれからです。国王を玉座から引きずり下ろすことが目的ではありません。国民のための自由で平等、博愛に満ちた国を作る必要があります。フランス革命はこの後どうなっていったのでしょう。続きを見てみましょう。
国民を見捨てて国外逃亡だなんて!ヴァレンヌ事件
暴動勃発後、それまで国のトップで胡坐をかいていた多くの聖職者や貴族が、国王一家を見捨てて国外へ逃げ出すという事態に陥ります。
身の危険を感じた国王一家は国外逃亡を計画。手引きしたのはマリー・アントワネットの愛人と噂されるスウェーデン貴族のフェルゼン伯爵だったといわれています。彼らの手を借り、国王一家はマリー・アントワネットの実家であるオーストリアへ逃げる予定でした。
1791年6月20日深夜、テュイルリー宮殿からこっそり抜け出した国王一家は馬車で国境を目指し移動。しかし国境手前のヴァレンヌという町で見つかってしまい、パリへ連れ戻されることになってしまいます。
逃亡した国王に、フランス国民はますます激怒。最後まで国王のそばにわずかながら残っていた貴族たちの目も冷ややかなものでした。もはや国王一家を支持する者はいません。
フランス国王の逃亡劇は、諸外国にも大きな衝撃を与えました。フランスほどひどい状況ではないにしろ、自国の平民がフランスの動きに感化される可能性は大きい。革命の巻き添えを恐れたオーストリアやプロイセン(ドイツ北部にあった国)は、ルイ16世の地位を保証するようフランスに働きかけます。フランス国内で孤立してしまったルイ16世ですが、国王の座に留まることになりました。