教養歴史

アメリカ建国に繋がった「フレンチ・インディアン戦争」を元予備校講師がわかりやすく解説

17世紀後半から18世紀にかけて、イギリスとフランスは世界各地で植民地をめぐる争いを展開していました。18世紀半ば、ヨーロッパで起きた七年戦争に連動して北米大陸でもフレンチ・インディアン戦争が始まります。フレンチ・インディアン戦争とはどのような戦いで、戦争終結後の北米大陸はどうなったのでしょうか。今回はフレンチ・インディアン戦争の背景や経緯、戦争後の北米大陸の様子などについて元予備校講師がわかりやすく解説します。

フレンチ・インディアン戦争の背景

17世紀後半から18世紀にかけて、イギリスとフランスが世界各地で争ったことを第二次百年戦争といいます。イギリスとフランスが奪い合ったのは植民地でした。もっともはげしい争いを繰り広げたのが北米植民地です。北米での戦いはヨーロッパ本国での戦いとも連動。イギリスとフランスは100年余りにわたって繰り返し戦いました。代表的な戦争は、アン女王戦争とジョージ王戦争です。

英仏の対立と両国の北米大陸進出

17世紀中ごろ、イギリスとフランスは重商主義政策に基づき、世界各地で植民地を獲得しようと動き出しました。ヨーロッパ本国はもとより、インドや北米植民地でも両国は激しく戦います。

この間、ヨーロッパでは各国の同盟関係が大きく変化するなどしましたが、イギリスとフランスの敵対関係はかわりません

北米大陸への進出は英仏ほぼ同じころに始まりました。17世紀前半、イギリスはヴァージニアニューイングランドといった植民地を建設。フランスはケベック植民地をつくります。

1650年代から1670年代にかけて、イギリスはオランダとの英蘭戦争に勝利し、ニューヨークを奪取。北米大西洋岸の拠点を固めました。

フランスは1682年にルイジアナ植民地を建設。ミシシッピ川流域を抑えようとします。両国の対立は18世紀にも引き継がれました。

スペイン継承戦争とアン女王戦争

1701年、カルロス2世が死去したことによりスペイン=ハプスブルク家の血統が断絶しました。これを受け、フランス王ルイ14世は自分の孫のフィリップにスペイン王家を相続させようとしました。

一方、オーストリア=ハプスブルク家は皇帝レオポルド1世の妃がカルロス2世の妹であったため、レオポルド1世の次男をスペイン王にしようと画策します。オーストリアは反フランスの大同盟を結成し、フランスと戦いました。イギリスはオーストリア側に立ちフランスと戦います。ヨーロッパでの戦いはオーストリア・イギリス・オランダの連合軍が優位に戦いを進めました。

また、イギリスとフランスは海外の植民地でも戦います。北米でおきたイギリスとフランスの戦いをアン女王戦争といいました。結局、イギリスはアン女王戦争でフランスに勝利。フランスから北米植民地を奪い取ります

オーストリア継承戦争とジョージ王戦争

1740年、ハプスブルク家の当主で神聖ローマ皇帝だったカール6世が死去します。カールには跡を継ぐべき男子がいなかったので、生前、「国事詔書(プラグマティッシェザンクティオン)」を発布し、女子のマリア=テレジアがオーストリアを相続できるよう各国に根回ししていました。

しかし、プロイセン王フリードリヒ2はこれを認めず、オーストリアと戦端を開きます。フリードリヒの目的はシュレジェン地方の奪取でした。フランスはプロイセンに味方します。

イギリスはフランスと植民地をめぐって争っていたため、フランスの敵対陣営であるオーストリアに味方しました。ヨーロッパでオーストリア継承戦争が起きると、北米大陸ではジョージ王戦争が起きます。オーストリア継承戦争はプロイセンの勝利ジョージ王戦争は引き分けに終わりました。

フレンチ・インディアン戦争の経緯

Troupes de la Marine 2.jpg
Charny投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, リンクによる

オーストリア継承戦争で敗北したマリア=テレジアは、プロイセンからシュレジェン地方を取り戻すべく、歴史的宿敵であるフランスと和解するという外交革命を成し遂げます。イギリスはフランスと敵対していたため、同盟相手をプロイセンに変更しました。ヨーロッパで七年戦争が始まると、北米大陸ではフレンチ・インディアン戦争が始まります。

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