アメリカの歴史植民地時代

アメリカ独立戦争とは?13の植民地が共和制国家を作り上げるまでの過程を解説

7月4日はアメリカ人にとって重要な祝日である独立記念日です。この日は、1776年の第二回大陸会議で独立宣言が採択された日。アメリカでは今でも国を挙げて祝います。独立戦争に勝利したアメリカ人は18世紀としては珍しい、王や貴族がいない共和国を建国しました。今回は独立戦争の背景・経過・影響などについてわかりやすく解説します。

なぜ13植民地の人々は独立を目指したのかその背景に迫る

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17世紀から18世紀にかけて、イギリスは北アメリカの太平洋岸に13の植民地を建設します。植民地では入植者たちによる自治が行われていました。このころ、イギリスとフランスとの間で第二次100年戦争が勃発。戦争後、戦費返済の必要に迫られたイギリスは北米の13植民地に重税を課しました。イギリス本国への不満を募らせた13植民地は団結して反発します。

北米13植民地の成り立ち

大航海時代にコロンブスがカリブ海に到達し、アメリゴ=ヴェスプッチが南北アメリカが新大陸であることを明らかにしてから、ヨーロッパ人たちは続々とアメリカ大陸に植民地を作っていきました。

特に、イギリスは北アメリカ大陸の東海岸に入植し多くの植民地を建設します。1607年に建設されたヴァージニア植民地を皮切りに1732年のジョージア植民地の建設まで13の植民地が作られました。

中にはイギリス本国での宗教的弾圧から逃れるため、メイフラワー号に乗ってアメリカに移住しプリマス市を建設したピルグリム・ファーザーズのような例もあります。

13の植民地には植民地議会があり、植民地議会は立法・課税・司法などの権利が認められます。それぞれの州にはイギリス本国から総督が派遣され、行政の最終決定権を持っていました。

第二次英仏百年戦争でイギリスとフランスは激しく争った

17世紀から18世紀にかけて、イギリスとフランスは世界各地で植民地獲得競争をしていました。1689年に北米で起きたウィリアム戦争が第二次百年戦争の始まりとなります。

1702年におきたアン女王戦争イギリス軍の優位に進展。1713年のユトレヒト条約でイギリスはハドソン湾地方やニューファンドランドなどを獲得します。1744年のジョージ王戦争は勝敗がつかず引き分け。1754年、ヨーロッパの七年戦争に連動する形で始まったフレンチ=インディアン戦争では、イギリス軍がフランス軍とインディアンの連合軍に勝利。

戦後のパリ条約でフランスからカナダやルイジアナを獲得し、イギリスは北アメリカからフランス勢力をほとんど排除することに成功しました。こうして、第二次百年戦争はイギリスの勝利に終わります。

財政難の本国イギリスが13植民地に課した重税と植民地の反発

フレンチ=インディアン戦争でフランスの排除に成功したイギリスでしたが、相次ぐ戦争により国家財政は疲弊していました。イギリスは戦費調達のため発行していた公債(国の借金)返済のため、13州植民地に重税をかけます。

1765年、イギリスは植民地で発行される法律・商業関係・新聞などの全ての書類や刊行物にイギリス本国が発行する印紙を買って貼ることを義務付ける印紙法を制定しました。印紙の代金はイギリス本国の収入になるため、植民地の人々から見たら増税でした。

印紙法に対し植民地では、イギリス本国の議会に代表を送っていないのに本国から課税されるのはおかしいとして、「代表なくして課税なし」と訴えます。その後も、新たに課税されるたびに植民地は強く反発しました。

アメリカ独立戦争の経過

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度重なる本国の課税に植民地の人々は我慢の限界を越え、独立へと動き出しました。植民地の代表が集まった大陸会議でワシントンを植民地軍の司令官に任命して独立戦争が始まります。しかし、世界最強のイギリス軍を相手に植民地軍は苦戦を強いられました。しかし、ヨーロッパ諸国を味方にした植民地軍はイギリス軍を打ち破ります。独立戦争の経過についてみてみましょう。

植民地人の我慢の限界!ボストン茶会事件と第1回大陸会議

1773年、イギリスは経営難に陥っていた東インド会社を救済するため、茶法を制定。東インド会社に植民地で茶を独占販売できる権利を与えます。植民地の急進派は茶法に大反発し、ボストン港の東インド会社の船を襲撃、積み荷の茶を海に投げ捨てました。この事件をボストン茶会事件といいます。

イギリス本国は報復としてボストン港を封鎖し植民地に圧力を加えました。1774年、植民地側はフィラデルフィアで第1回大陸会議を開催します。しかし、植民地も一枚岩ではありませんでした。

大陸会議の3分の1は愛国派、もう3分の一は国王派、残りの3分の1が中間派です。大陸会議の主導権は愛国派が握りました。その結果、植民地に対するイギリスの立法権の否定などが決議されます。

独立こそが、我々の「常識」

1775年4月、イギリス軍と植民地軍がレキシントンで衝突。これにより、独立戦争が始まりました。植民地側はゲリラ戦を展開します。植民地側は兵数でも装備でもイギリス軍に劣っていたため劣勢に立たされました。

苦戦が続く中、1776年、トマス=ペイン『コモン=センス』を発表。この中でトマス=ペインは王政や世襲制を否定し、イギリスによる統治を否認します。

また、小さな島国であるイギリスが大陸であるアメリカを支配することは不自然であるとも述べました。これらのことから、アメリカがイギリスから独立することこそ“コモン=センス(常識)”であると説いたのです。独立戦争を正当化したこの本の登場で独立派の士気が高揚しました。

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