日本の歴史昭和

名門貴族に生まれ国民的人気を博した政治家「近衛文麿」の生涯を元予備校講師がわかりやすく解説

組閣の大命

大日本帝国憲法において、主権は天皇にあるとされました。そのため、国政を預かる内悪総理大臣は天皇によって直接任命されます。天皇によって内閣総理大臣に指名され、組閣するよう指示されることを組閣の大命といいました。

名門貴族に生まれ、一高から東京帝国大学、京都帝国大学に進学した近衛は西園寺など政界の有力者から期待されます。さらに、この時代としてはかなり長身の180センチで端正な容貌だったこともあり国民からの人気もありました。

二・二六事件の直後、一度は首相候補となりますが、このときは首相となりません。

再び近衛にチャンスがめぐってきたのは二・二六事件後に発足した広田内閣が総辞職したときでした。

広田のあと、陸軍大将の宇垣一成に組閣の大命が下されますが、軍縮を実行した宇垣は陸軍での評判が悪く、組閣することが出来ません。その結果、近衛に組閣の大命が下されました。

日中戦争の始まり

第一次近衛内閣は組閣直後に難問に直面しました。盧溝橋事件が発生したからです。1937年7月7日、北京郊外にある盧溝橋で日中両軍が衝突。大規模な軍事紛争に発展しました。

近衛は事態の早期鎮静化を図るため、不拡大方針を打ち出します。しかし、現地の陸軍は近衛の不拡大方針を意に介することなく戦線を拡大。正式な宣戦布告がないまま、戦争は拡大しました。

加えて、同年8月には第二次上海事変も勃発。日本は中国との全面戦争に突入しました。

近衛は当初の不拡大方針をあきらめざるを得ず、陸軍の要請に押され出兵経費や予算を計上します。

また、戦争遂行に必要な物資の調達や生産・輸送などを行うため企画院を創設しました。1938年には国家総動員法を制定。日本は名実ともに戦争状態になります。

3度にわたった近衛声明と内閣総辞職

泥沼化していく日中戦争に対し、近衛はどのように事態を収拾させようとしていたのでしょうか。

1938年1月16日、近衛首相は蒋介石率いる国民政府が話し合いに応じないとして、「国民政府を対手とせず」と交渉打ち切りを表明しました。これが第一次近衛声明です。これにより、日中戦争の外交的解決はほぼ絶望的となります。

1937年から1938年にかけて、日本軍は中国の重要都市を占領。首都の南京や長江中流域の武漢、南部の重要都市である広東も占領しますが、蒋介石は降伏しません。近衛は第二次声明で「東亜新秩序」の建設を掲げます。近衛の狙いは国民政府内の和平派である汪兆銘と交渉することでした。

1938年12月22日、近衛は三度目の声明を発します。国民政府のうち、汪兆銘のグループと話し合い、善隣友好などに合意したからでした。しかし、中国の主流派は重慶に立てこもって抵抗を続行。近衛は事態打開の糸口をつかめないまま、総辞職します。

新体制運動と第二次、第三次近衛内閣

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首相を辞任した近衛は、ドイツやイタリアのような強力な政党を作ることで強い政治基盤を作ろうとしました。それが、新体制運動です。近衛内閣の総辞職後、短命政権が続き、近衛に再び組閣の機会がめぐってきました。近衛は自分の別荘のある荻窪で主要メンバーと会談。政権の方針を決め、二度目の組閣を行います。

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