日本の歴史昭和

名門貴族に生まれ国民的人気を博した政治家「近衛文麿」の生涯を元予備校講師がわかりやすく解説

戦争中の終戦工作

政権を降りた近衛は元外務次官で駐英大使だった吉田茂と接触。終戦工作に乗り出しました。1943年、近衛の終戦工作は首相の東条英機に知られてしまいます。

東条は陸軍軍務局長佐藤賢了を派遣して近衛に終戦工作から手を引くよう強く迫らせました。佐藤賢了は国家総動員法の審議中に反対派の議員に「黙れ」と怒声を発し問題となった人物です。この時も、近衛にかなり強く迫ったのかもしれません。

近衛は東条からの警告を受け、かえって終戦工作に熱を入れるようになりました。陸軍は吉田茂や近衛を「ヨハンセングループ」と呼び、より一層警戒するようになります。

戦局がかなり悪化していた1945年、昭和天皇は首相経験者を参内させ意見を聞きました。近衛は昭和天皇に対し「近衛上奏文」を提出。昭和天皇に対し、「国体護持」のため早期和平を推進するよう進言する内容でした。

敗戦と戦犯指定、自殺

1945年8月15日、日本はポツダム宣言の受諾を国民に公表。日本は連合国に無条件降伏しました。鈴木貫太郎内閣は総辞職。かわって、皇族の東久邇宮稔彦が組閣します。近衛は無任所大臣として入閣しました。

近衛はマッカーサーに対し、共産化を防ぐためには皇室と財閥を排除するべきではないと訴えます。東久邇宮内閣が総辞職したのち、近衛は公職から外れました

1945年10月の後半に入ると、近衛の戦争責任を問う論調が国内外の新聞に出始めます。これに呼応するように、GHQは近衛を戦争犯罪人として起訴する方向に動き始めました。

12月6日、GHQは近衛に逮捕を通告します。近衛はA級戦犯として東京裁判(極東国際軍事裁判)で裁かれることとなりました。12月16日、近衛は戦犯として裁かれることは耐え難いとして青酸カリを飲んで自殺します。

陸軍に翻弄された悲運の政治家

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N1229投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, リンクによる

近衛は日中戦争や太平洋戦争といった日本の命運を決める戦争の直前に首相として在任していました。陸軍の力が増大し、言いなりにならざるを得ない面があったにせよ、戦争について責任を追及されるのはやむを得ないことだったでしょう。後日、弟の近衛秀麿が述懐したように政治家向きの人物ではなかったのかもしれませんね。

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