日本の歴史昭和

名門貴族に生まれ国民的人気を博した政治家「近衛文麿」の生涯を元予備校講師がわかりやすく解説

新体制運動の始まり

1940年、近衛はそれまで勤めていた枢密院議長の職を辞し、新しい政治体制を目指す新体制運動に乗り出すことと声明を発表しました。近衛が新体制のモデルとしたのがドイツです。

ドイツではイタリアのファシスト党の手法を取り入れた国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)が政権を掌握。ヒトラー率いるナチスドイツは国内経済を回復させ、領土を拡大。宿敵のフランスを降伏させていました。

近衛の声明を受け、議会の主要政党は軒並み自ら解党。近衛の新体制運動に合流します。1940年10月12日、政党や官僚、軍部、右翼などを中心とする大政翼賛会が結成されました。これにより、日本では官僚が国民生活の隅々まで支配する仕組みが確立します。

近衛は大政翼賛会をナチス的なものとし、大政翼賛会による国政主導をもくろみますが、右翼などの反対で挫折。大政翼賛会は政治組織ではなく、戦争遂行のための組織と位置付けられました。

荻窪会談

1940年1月、海軍出身の米内光政が首相に就任します。米内は日独伊三国同盟には消極的でヨーロッパの戦争に不介入の姿勢を示しました。これに不満を持った陸軍は陸軍大臣の畑俊六を辞任させ米内内閣を倒してしまいます。

米内の後に組閣の大命が下されたのは近衛でした。1940年7月19日、近衛は次期内閣の主要メンバーとなる人物たちを東京杉並区にあった私邸の荻外荘に集めて会談を開催(荻窪会談)。

出席者は陸軍の東条英機、海軍の吉田善吾、外相候補の松岡洋右です。会談では長期化した日中戦争への対応やヨーロッパ戦線でのドイツの快進撃、東南アジア方面に進出する南進論などについて話し合われました。

外交方針としては、1937年に締結した日独伊三国防共協定を発展させた日独伊三国同盟の締結ソ連との間で日ソ不可侵条約を結ぶことなどが決められます。

第二次近衛内閣

1940年7月22日、第二次近衛内閣が発足します。近衛は「基本国策要項」を閣議決定。日本を盟主とし、東アジアブロックを形成する「大東亜共栄圏」構想が掲げられました。

1940年9月23日、陸軍はフランス領インドシナの北部に進駐。アメリカ・イギリスなどが蒋介石を支援する援蒋ルートの遮断をはかりました。

外交面では日独伊三国同盟の締結日ソ中立条約の締結など荻窪会談で決められた内容が実行されます。その一方、北部仏印進駐で急速に関係が悪化したアメリカとの戦争を回避するため日米交渉を開始しました。

1941年6月22日、ドイツは独ソ不可侵条約を突如として破棄独ソ戦が始まります。三国同盟にソ連を加えてアメリカに対抗しようとしていた外相松岡洋右の目論見は完全に外れました。

それでも、三国同盟にこだわる松岡を外すため近衛は内閣を総辞職します。大日本帝国憲法では首相に閣僚を辞めさせる権限がなかったからでした。

第三次近衛内閣

第三次近衛内閣の発足後も日米交渉は継続されます。1941年7月、日本軍はフランス領インドシナの南部にも進駐。フランス領インドシナを完全占領しました。アメリカは対抗措置として対日石油禁輸を発動。日米関係は悪化の一途をたどります。

1941年9月6日、昭和天皇臨席のもと、御前会議が開かれました。御前会議では帝国国策遂行要領が決定されます。帝国国策遂行要領の中で、対米交渉の期限は10月上旬までとし、それまでに進展がない場合は交渉を打ち切り対米開戦の準備に入ることが定められました。

近衛は事態を打開し、日米戦を回避するためローズヴェルト大統領との直接会談に強い意欲を示します。しかし、アメリカ側は10月2日になって会談を事実上拒否する返答を返しました。万策尽きた近衛は10月18日に内閣総辞職。かわって陸軍の東条英機が組閣します。

終戦工作と戦犯指定

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東条内閣の下、日本は真珠湾攻撃を実行し対米戦である太平洋戦争に突入します。開戦から1年ほどは日本軍の優勢でしたが、次第に物量に勝るアメリカの力に押され敗色が濃厚となりました。近衛は反戦グループとともに終戦工作を開始します。1945年8月15日、日本はポツダム宣言を受諾して連合国に降伏。日本にはGHQを率いるマッカーサーが乗り込んできました。GHQは近衛を戦争犯罪人として起訴しようと動きます。これを知った近衛は毒を飲んで自殺しました。

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