日本の歴史江戸時代

【親藩・譜代・外様】江戸時代ではなぜ大名に種類を設けた?その意外な理由とは?

江戸時代の大名の種類として区分けされた、親藩、譜代大名、外様大名。徳川家に対して味方の度合いが高い大名ほど、領地や役職において便宜が図られ、そうでない大名ほど不便を強いられていたイメージで定着している大名の種類には意外な理由があったのです。それは江戸幕府による大名間の人間関係の調整だったのです。

そもそも大名ってなに?江戸時代より前から存在した?

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大名は「たいめい」または「だいみょう」と読み、前者は大名主や大いに名が行き渡る地域の領主として、後者は富裕層としての違いがありました。その後江戸時代初頭から、意味は「たいめい」でありながら、専ら「だいみょう」として呼ばれるようになったのです。自分の領地を持ち、多くの家臣を従え、独自の経済体制を整えた、一国の主のことを指しますが、大名そのものは室町時代の守護大名に始まります。歴史の世界では、守護大名による守護領国制や戦国大名による大名領国制、そして安土桃山時代を経て江戸時代に至る近世大名などと区分けされたりしますが、ここで触れる種類は江戸時代の幕藩体制下の大名です。

江戸時代の幕藩体制下における大名とは?

江戸時代は、江戸幕府によって政治が行われ、各藩が行政単位であった時代であり、徳川家康が開祖として徳川家によって国が治められていた時代です。その時代の大名は大きく3つの種類に分けられていました。徳川家の親戚の親藩、関ヶ原の戦い前から徳川に臣従していた譜代大名、関ヶ原の戦い後に臣従した外様大名です。親藩や譜代大名は領地も江戸幕府からあまり不便でない土地や、遠方でも交通の要所に設けられていました。外様大名は領地が遠方にあり、参勤交代には大きな負担が生じていました。このように徳川家との関係の深さが条件となり、待遇が詳細に渡って決まるような形の分け方でした。

江戸幕藩体制下の大名の種類とは国防のための役割だった!

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江戸時代は鎖国社会の時代でもありました。中国、朝鮮、琉球王国、オランダを除いた全て国との交易を禁じていました。三代将軍徳川家光の時の島原の乱以降、幕府はキリスト教を警戒していたのです。そのような中幕府が恐れていたのは、諸藩の大名の中から島原の乱のような宗教的背景を伴った革命が起こること。そこで江戸幕府は大名の間に種類を設けることで、お互いの大名間の人間関係に亀裂が生じないようにすることで革命を防いだのです。

もし江戸時代の大名が全て対等だったらどうなるか?

江戸幕府創設時から、大名間に明確な種類はなく全てフラットで江戸幕府とつながっていたら一体どうなっていたでしょうか。大名に、親藩、譜代大名、外様大名の区別がなければ間違いなく江戸幕府は100年も続かなかったことでしょう。室町幕府が時ともに形骸化したものとなり、各地の戦国大名が覇権を争う結果になったように、戦国時代に舞い戻ったはずです。一重に大名といっても御三家などの徳川家康の子孫にあたる大名から、関ヶ原の戦いでは敵として戦った大名など様々な種類によって大名間の人間関係が発生し、その結果として反幕府として勢力が固まるようなことはありませんでした。

もしフラットになった場合、当然徳川家や松平家とその他の大名の間で力関係を示す動きが出てくることでしょう。大名が互いに信頼できる人間関係が築かれた場合は問題が発生しませんが、そうでない場合には大名間の争いが勃発することもありえたのです。しかもその争いが全国規模に渡った場合には、江戸幕府は諸大名からなる幕府軍すら形成することはできなくなります。

大名が親藩、譜代、外様の格付けによって得られたものは?

大名に身分や功績に応じた種類が与えられることで、大名間に自ずと序列が生じ、大名間の実力行使による人間関係における序列を作り上げる必要がなくなります。また種類があることで、序列が下の大名は上の大名に対して内々の不満が出てきたでしょうが、戦になるほど人間関係がこじれることはなくなったのです。これは今日でいう所の会社間の人間関係にも当てはまります。全くフラットな関係の社員間で話がこじれた場合は喧嘩につながりますが、上司と部下の間で話がこじれた場合には、部下にとっても「相手が上司では仕方がない」といったあきらめが、喧嘩へのブレーキとなるのです。

これと同じように、大名間でも必ずしも利害関係がゼロであったわけではありません。しかし「相手は親藩だから」「自分は外様大名だから」といった格付けによるあきらめが、無為な争いに発展するのを阻止できた可能性は非常に高いのです。

江戸幕府は大名の種類を利用してどのように牽制したのか

江戸幕府にとって一番の牽制の対象は実は親藩でした。親藩は諸藩の大名にとっては江戸幕府の代わりに大名に睨みをきかせる存在であり、江戸幕府にとっては親藩という位置づけを与えることによって将軍家の跡継ぎに関わることを防ぐものでした。特に尾張・紀州・水戸の徳川家には御三家の尊称を与え、親藩の中でも特別な地位に設定されていました。そうした地位に縛りつけて江戸幕府の代わりとして軍事的要所に御三家を配置することで江戸幕府は諸藩の大名に睨みをきかせていました。

一方、譜代大名には、領地そのものは外様大名に比べて少ない代わりに、老中や若年寄などの幕政に関わる重要な役職を与えることでモチベーションを与えていたのです。当然幕政において失敗に至った場合には徳川幕府の失敗ではなく、時の老中・若年寄への処分で終り、将軍家には火の粉が飛ばないようにしていました。外様大名に対しては普請工事などを命じてスケープゴートにすることで、他の大名の不満をそらすようにしたのです。

江戸幕府にとって一番の脅威は親藩だった?

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江戸幕府にとって支えとなる親藩は同時に江戸幕府にとって脅威にもなり得たのです。それは親藩である徳川藩、松平藩が江戸幕府の幕政に批判を起こすようなことがあれば、日頃から幕政に不満を抱く他の大名の共感を得やすいことは必定であり、諸侯から反幕府同盟も得やすかったことでしょう。現に幕末の倒幕運動では、尾張徳川家や水戸徳川家が新政府軍に同調した程です。将軍家自体は幕府に反逆するほどのレベルではないですが、8代将軍吉宗の倹約政策に反して尾張徳川藩の徳川宗春は規制緩和政策を取った事実があるほどでした。

仮に親藩自体は幕府に恭順の姿勢を保っていた場合でも、幕府に不満を持つ大名たちに担ぎ込まれる形でいつのまにか反幕府の勢力が芽生えていたということもあり得たのです。そのため、江戸幕府としては「親藩」という種類の元、可能な限り江戸幕府に弓を引かぬように据え置き、また親藩だからこそ江戸幕府に差し障りがあれば容赦なく処分し、幕府と親藩とは最終的に横並びでないことを諸藩の大名に知らしめました。

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