安土桃山時代日本の歴史

「本能寺の変」はなぜ起きた?信長の死・日本史最大のミステリーをわかりやすく解説

日本の歴史を振り返ると、謎めいた事件や出来事が数多く起きています。「もっとも謎めいた事件を一つ上げるとしたら?」と聞かれたら、多くの人が「本能寺の変」を挙げるのではないでしょうか。戦国時代、列強を従え天下統一を成し遂げようとしていた織田信長を突然襲った明智光秀。いったいなぜ?本能寺の変の前後の流れを追いながら、真相に迫りたいと思います。

信長・光秀・秀吉・家康……有力武将たちそれぞれの立場とは

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本能寺の辺の中心人物といえば、織田信長と明智光秀。二人は当時、主従関係にあったはずですが、いったい何があったのでしょうか。さらに、事件直後の動向に目を向けると、豊臣秀吉(羽柴秀吉)や徳川家康の動きを見逃すわけにもまいりません。本能寺の変が起きる前の各武将たちの状況について見ておきましょう

天下布武!天下統一にまい進する絶対的存在【織田信長】

織田信長は言わずと知れた、戦国時代一の武将です。

一介の地方大名からのし上がり、ほかの武将たちから一目置かれ恐れられるまでになった戦国の覇者。諸外国の技術や文化に興味を抱き、必要とあらば取り入れる柔軟な頭の持ち主で、戦術も斬新。領地や城の場所にこだわらず、どんどん城を住み替え、そのたびに成果を上げて力をつけていきます。

かといって連戦連勝というわけではなく、戦ではなかなかの苦労人。多くの戦国武将がしのぎを削る戦国時代において、より遠くを見つめ、武力によって天下を治める「天下布武」を掲げ、ひたすらまい進していきます。

実際の人物像については様々な見解がありますが、多くの人が、かなり気性の激しい武将の姿を思い浮かべるはず。部下として働いていた明智光秀のことを蹴り飛ばしたという逸話は、多くの人が知るところです。これは、信長のもとに出入りしていた宣教師ルイス・フロイスの書簡にも綴られています。

信長は光秀の才覚を見込んで家臣にし、様々な仕事を任せて信頼していましたが、その分、衝突が多かったのかもしれません。

信長に蹴られた?一番の出世頭の身に何が?【明智光秀】

信長に足蹴にされ悲惨な人生を歩んでいたというイメージが強い明智光秀。もともとは名家の血筋でしたがその家は没落し、半ば浪人同然の生活をしていたときに信長と出会い、家臣になりました。

若いころの詳細は、ほとんど明らかになっていません。しかし、自分の部下たちを大切にし、領民のことを思う情に厚い武将だったとも伝わっています。

また、教養も豊かで歌を詠むなど雅なことも得意。成り上がりの戦国武将とは違う一面を持っていました。

比叡山焼き討ちにも参画。信長の命をうけて数々の城を攻略し、足利義昭の上洛に同行したり、地方遠征にも繰り出し、信長の重要なミッションを次々とこなしていきます。信長からも信頼されていました。

しかし、少しずつ、信長と光秀の間に溝ができてしまいます。

何が原因だったのか明確ではありませんが、功績をあげた後に光秀が発した、ちょっとした言動や言い回しに信長がカチンときたとか、最初はそんな些細な事だったようです。

信長が成功をおさめるにしたがって、光秀の仕事内容も、単に戦の準備だけでなく、接待の準備とか、根回しとか、そんなこともやるようになっていました。徳川家康を安土城に招待した際、光秀が用意した食事が腐っていたという話はあまりにも有名。信長に蹴られ怒鳴られ、光秀は次第に追い詰められていったと考えられています。

その時秀吉や家康は?他の武将たちと信長の関係とは

信長の家臣としてメキメキ力をつけてきた人物がもう一人。のちに天下人となる羽柴秀吉です。

秀吉は武士ではなく農民の出。抜群の行動力と機転で這い上がり、織田家でも屈指の家臣にまで上り詰めていました。愛嬌があって人たらし、仲間を大事にしながらどんどん手柄をたてて出世街道をまっしぐら。教養と品性を備えた明智光秀とは真逆の存在といえます。

そしてもう一人、重要なカギを握る人物が徳川家康。本能寺の変から20年ほど後に江戸幕府を開き、戦国時代を終わらせ江戸時代の礎を作った大人物です。

家康の実家はもともと、三河の小さな豪族の家柄でした。それほど権力があるわけでもなく、幼少時代は人質に出されるなど苦労を重ねます。成人してからは信長と同盟を組むなど、織田家とは協力体制をとっていました。

家臣というわけではありませんでしたが、時に協力し合って戦に出ることもあった信長と家康。天下取りにまい進する信長の姿を、家康はどう見ていたのでしょうか。

天正10年6月2日・京都本能寺で何があったのか

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本能寺の変とは、天正10年(1582年)6月2日、寝静まっていた信長の寝所に光秀軍が切り込んだという歴史的大事件です。館は火に包まれ、織田信長と息子の信忠は非業の死を遂げます。6月2日、本能寺でいったい何があったのか、詳しく見ていきましょう。

天正10年5月26日:光秀・中国地方へ出陣する

この年の春先から、羽柴秀吉は中国地方の戦国大名・毛利一族と交戦中。備中高松城を包囲していましたが、毛利家の主力部隊が接近しているとの情報を受け、信長に援軍を要請してきたのです。

その援軍として呼ばれたのが光秀でした。

接待やら根回しやらに追われて忙しくしていた光秀でしたが、信長の命には逆らえません。急いで出陣の支度を整えます。

一説には、このとき、信長は光秀に「攻め終わったら毛利の領地をやる。そしたら今住んでる領地(京都・丹波など)は全部取り上げね」といったようなことを言われたのだとか……。これにはいくつかの説があり定かではありませんが、もしかしたら軽いジョークのつもりで言ったのかもしれません。

しかし事実なら、言われたほうはたまりません。パワハラもいいところです。

明智光秀は丹波の愛宕神社で何度もおみくじを引いと伝わっています。

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