室町時代戦国時代日本の歴史

激動の時代に翻弄された「佐和山城」とはどんな城だった?歴史系ライターが解説!

滋賀県はどの都道府県にも負けないほどの「お城ワールド」だということをご存じでしょうか?有名な城だけでも彦根城、長浜城、安土城、近江八幡城、小谷城などがあり、多くが日本の歴史の中で重要な役割を果たしていたのです。今回ご紹介させて頂くのは彦根市にある【佐和山城(さわやまじょう)】なのですが、全国的には「石田三成の居城」としてかなり有名です。そんな佐和山城の歴史を紐解きつつ、時代によって様々に役割を変えていった姿をご紹介していきましょう。

琵琶湖水運の要として活躍した佐和山城

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佐和山城の歴史は古く、すでに鎌倉時代の初めには砦らしきものが築かれていたそうです。交通の要地にあって琵琶湖からも近かったその立地が早くから注目されていました。

佐和山城の現況について

本題に入る前に、まず佐和山城の現在の様子についてご紹介しましょう。

彦根城から望むとちょうど東の方向に山が連なっているのがわかります。その距離わずか800メートルほど。その山こそ佐和山城のあった場所になるのです。国道8号線を走ると彦根城近くでトンネルに入りますが、その真上に佐和山城がありますね。

佐和山城へは観光目的で行くことをあまりオススメしません。なぜなら皆さんが期待する竹田城や安土城のような石垣がほとんど残っていないから。ですから期待して行くのは絶対にダメです。わずかな石垣跡や土塁跡などが残っているくらいでしょうか。

ただし曲輪などの痕跡は、そこかしこに残っていますから、筋金入りの歴史・城郭マニアの方であれば納得する面白さでしょう。

山頂を中心として尾根伝いに広い曲輪が連なり、そこにかつて豪壮な石垣や建物が建っていたことを偲ばせてくれます。ただし山城ですのでハイキング感覚で訪れたほうが良いかもしれませんね。

麓の龍潭寺前に無料駐車場がありますから、そこを利用すれば便利です。

小谷城の支城の役割を果たしていた佐和山城

時は戦国。琵琶湖に抱かれた近江国でも戦乱の火の手は上がっていました。南に六角氏、北に浅井氏といった戦国大名が割拠し、互いに勢力を競い合っていたのです。ちなみに佐和山城は六角氏と浅井氏の両勢力の中間地点にあたり、頻繁に争奪戦が繰り返されていました。

やがて浅井氏は不利になり、一時は六角氏の風下に立たねばならない時もありましたが、そこで登場したのが若き浅井長政でした。戦上手な長政は六角勢を打ち破り、自らの版図を広げていきました。

長政は小谷城を本拠地として、各地に支城を構えて相互ネットワークを構築しました。佐和山城は位置的に最も南の支城にあたります。佐和山城のすぐ近くには東山道が通り、京都方面から向かってくる軍勢や物資を監視し、逐一小谷城へ報告することができました。

城主には浅井氏が最も頼りにする重臣、磯野氏が入りました。敵対する六角氏は猛将磯野員昌が守る佐和山城をなかなか落とすことができず、加えてお家騒動があったために徐々に勢力を衰退させていきました。

琵琶湖水運の要衝となった佐和山城

現在の琵琶湖湖岸ははるか遠くに位置していますが、当時の佐和山山麓には入江内湖松原内湖といった入り江が存在していました。いわば港を置くには絶好の場所だったのです。

北陸方面から運ばれたコメや海産物などの物資は、琵琶湖北岸の塩津などで船に積み替えられ水運によって輸送されていました。坂本堅田などの大きな港と同じく、佐和山にも多くの物資が積み下ろしされていたようです。

陸上輸送するより労力もコストも時間も抑えられるため、琵琶湖水運は物流の大動脈となりました。浅井氏もまたその水運を取り仕切ることによって経済的に潤っていたのでしょう。のちに織田信長もその重要性を感じて、安土城が完成するまでの間、佐和山城をまるで居城のように利用していたそうです。

織田と浅井による争奪戦

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当初は同盟関係によって結ばれていた織田氏と浅井氏ですが、信長の越前朝倉氏攻めを機に破綻。両者の生き残りを掛けた戦いに発展しました。佐和山城もまた争奪戦の舞台となったのです。

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明石則実