国家総動員法制定の背景
1936年、二・二六事件が起きると統制派が陸軍内での主導権を握ります。統制派は軍による政治や経済の統制を主張しました。革新官僚や軍に近い政治家などと提携し、合法的に国家権力を掌握した統制派は総力戦体制の確立を目指します。軍の政治介入が強まる中、1937年に設置された企画院は、物資の総動員計画を立案。日本は戦時体制の確立へと進んでいきました。
二・二六事件の結果、陸軍統制派の力が強まった
1936年2月26日、天皇親政の実現と国家改造を目指す陸軍皇道派の青年将校らが約1400名の兵をひきいて首相官邸など東京の各所を占領しました。皇道派部隊は斎藤実内大臣、高橋是清大蔵大臣、渡辺錠太郎陸軍教育総監らを殺害し、陸軍省や参謀本部、警視庁などを占拠します。
決起部隊は他の部隊の参加・賛同を期待しましたが、27日に東京に戒厳令が布告され、28日には「騒擾部隊」として反乱軍と認定されました。同時に、原隊復帰の奉勅勅命が下され反乱は失敗に終わります。
陸軍内で皇道派の発言力は急速に低下。かわって、統制派が陸軍の主導権を握りました。岡田内閣は事件の責任を取って総辞職。かわって成立した広田弘毅内閣に組閣の大命(総理大臣指名のこと)が下ります。
軍による露骨な政治介入
広田弘毅は組閣にあたって、閣僚人事や軍備拡張など軍の要求を大幅に認めることでようやっと内閣を成立させることができました。また、広田内閣は軍部大臣現役武官制を復活させます。これも、軍の要求を受け入れてのことでした。
広田内閣が閣内不一致で総辞職したのち、天皇から組閣の大命を受けたのが陸軍大将の宇垣一成です。しかし、宇垣は陸軍内で人気がありませんでした。その理由は、宇垣が大規模な軍縮を実行するなど統制派にとって不都合な人物だったからです。
陸軍は宇垣内閣に対して陸軍大臣を出さないという形で抵抗します。陸軍は、陸軍大臣が任命できないと内閣が不成立となる大日本帝国憲法の仕組みを利用しました。その結果、宇垣は組閣できずに林銑十郎がかわって組閣します。陸軍は自分の意に沿わない内閣を倒せることを改め示し、政治介入を深めていきました。
日中戦争の開戦と企画院の設置
1937年7月、北京郊外の盧溝橋で日中両軍が衝突。日中戦争がはじまりました。日本軍は短期決戦をもくろみ部隊を次々と増派します。しかし、首都南京を制圧すれば中華民国の蒋介石も降伏せざるを得ないだろうという軍部の目論見は崩れ、戦争は長期戦となりました。
この時、政権を担当していた第一次近衛文麿内閣は長期化する日中戦争に対応するため、1937年9月に臨時資金調整法や輸出入品等臨時措置法などを成立させます。さらに、戦争に必要な物資を調達するため10月には内閣直属の企画院を設置しました。
企画院は戦争に必要な物資や人員を確保し、国家が経済を統制するときの中心機関として機能します。また、軍事予算も拡大の一途をたどり1937年には国家予算の69%近くが軍事費にあてられました。こうして、日本経済は戦争中心となっていったのです。
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国家総動員法の制定と総力戦体制
日中戦争をきっかけに、戦争中心の政治・経済体制に移行していった日本。その中でも帝国議会には、強引な陸軍や政府の方針に対し反対意見を主張する議員たちもいました。政府は1938年4月に国家総動員法を制定。政府が議会の承認なしに勅令で戦争に必要な物資や人員を確保できる法律を制定することで、政府は議会の反対を気にすることなく戦争最優先の体制を整えていきます。
国家総動員法の審議と「黙れ事件」
日中戦争の直前の1937年5月、陸軍は「総動員法立案ニ対スル意見」を内閣に送りました。陸軍は戦争に備えるため、総動員法の制定を政府に働きかけていたのです。
日中戦争がはじまると、陸軍の総動員法制定への圧力が日増しに高まりました。1938年1月、近衛内閣は陸軍の要求にこたえるため、国家総動員法の議会提出を閣議決定します。
この法案に対し、民政党や政友会といった当時の二大政党内には反対する議員も数多くいました。帝国議会で審議中に、陸軍の佐藤賢了中佐が法案の説明を行いましたが、反対派の議員らが佐藤中佐の説明に野次を飛ばします。これに怒った佐藤中佐は野次に対し「黙れ」と一喝しました。
「黙れ」発言をめぐって法案審議は紛糾しましたが、結局、陸軍大臣が陳謝することで事態は沈静化します。この後、二大政党は突如として法案賛成に回りました。近衛首相が事態打開のため衆議院を解散するのではないかと考えたからだといいます。こうして、国家総動員法は帝国議会を通過し成立しました。